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情報発信も大切なボランティア活動

<まごころ体験記⑥>

「情報発信も大切なボランティア活動」

東京都  安齋由紀

1.はじめに

遠野の五百羅漢にて

遠野の五百羅漢にて

私は静岡の伊豆半島の出身です。少なくともここ30年間、静岡県で育った子どもたちは「東海大地震は明日発生してもおかしくない」と教え込まれています。小中学校の避難訓練の回数は他県に比べて多かったように思いますし、実際に伊豆大島の噴火や伊豆半島沖群発地震など、定期的に発生する地震に、生活を脅かされてもきました。そうやって育つと、地震に対する恐怖が澱(おり)のように心の片隅に溜まっていく気がしていました。

それだけに2011年3月11日の地震発生後、ニュースの画面、新聞の紙面に映し出される被災地の惨状は、いつか私の故郷を襲うかもしれない光景と重なり、私が画面のこちら側で無事でいることの方が、幻想であるかような感覚まで引き起こさせました。そして、途方にくれる被災地の人々の姿は、“私自身”の姿でもありえたのだと思われて「何かしなければならない」という焦燥感が、日に日に大きくなっていました。「けれど、特技があるわけでもない私が、何のつてもなく現地に行っても、足手まといになるだけではないか?」などと鬱々と考えている時に、一般の個人ボランティアも受入れている「遠野まごころネット」の存在を知ったのです。「とにかく行こう。行って、邪魔だといわれたら、その時は帰ってくればいいのだから…」。人生初の災害ボランティア参加を申し込みました。

班長として体験したさんま隊での過酷な作業

班長として体験したさんま隊での過酷な作業

4月29日の深夜に東京駅発の夜行バスに乗り、30日の朝、遠野に着きました。以後5月7日の夜まで7泊8日のボランティア生活を送り、初日は受付業務、2日目から5日間は、陸前高田市上長部地区における水産加工品の回収作業(通称さんま隊)に参加しました。さんま隊では班長もさせていただき、参加者が日々知恵を絞って活動の効率化と安全性確保のためにブラッシュアップを重ねるさまを目の当たりにし、たくさんのことを学ばせていただきましたが、これについては既に多くの方々の感想や詳細なご報告が寄せられているようですので、ここでは私が関わらせていただいた他の二つの活動についてご報告したいと思います。

「よりそう」の編集風景

「よりそう」の編集風景

2.ボランティア向けニュース「よりそう」編集作業

「よりそう」は、まごころネットに参加するボランティアに向けて、ボランティア自身の手で情報提供するツールとして、4月26日から発行されているニュースレター(壁新聞)です。私は、4月30日のボランティアミーティングで前任の紺野さんから引継ぎ、以来5月7日まで編集を担当させていただきました。紺野さんや、さらにその前任の三好さんはお1人で作業されていたようですが、私の場合は幸運なことに、初日に4人の仲間と出会え、チームを組んで作業をすることができました。以来、メンバーは入れ替わりつつも、常に意欲的な仲間が集まってくれたために、連日500人にも上るボランティアが集まった連休中、スムーズに活動を実施するための情報提供ツールとして、「よりそう」は一定の機能を果たすことができたと自負しています。

掲載内容は主に、毎日夕方開催されるボランティアミーティングで確認された約束事や求人情報の周知と、まごころネットで実施されている様々な活動の体験記などでした。各編集員は、割り当てられたスペースに担当テーマの記事を書き、これを1つの紙面に切り張りしていく。パソコンさえあればクリック1つで済む作業を、全て手作業で行なっていました。筆跡のばらつきや修正の跡など、手書きゆえの見にくさもあったと思いますが、手書きだからこその温かさ、やわらかさを喜んでくださる方も多く、そうした声に励まされました。

正直なところ、さんま隊に参加して16時半すぎに遠野に戻り、シャワーを浴びる間もそこそこにミーティングに参加。編集、印刷、掲示、それからさんま臭の染み付いた雨具を洗っていたら深夜1時、2時です。翌朝は(GW中の宿泊施設だった)上郷と青笹の地区センターに「よりそう」を配達してから7時30分の朝礼までに事務局に戻る、という生活は、いささか「きついな」と思ったこともありました。けれど、壁に張り出された「よりそう」を熱心に読んでくださる方の姿や、「大切なことだから頑張れ!」と励ましてくださった事務局の方たちの支え、何より、それこそ“よりそい”合って、紙面を作り上げた仲間達の存在が、大きな喜びでした。

「よりそう」英語版の編集作業

「よりそう」英語版の編集作業

「よりそう」は、5月2日の第7号から英訳も始まり、海外から参加してくれるボランティアにも情報提供できるようになりました。また、まごころネットのホームページ上にもアップされ(「よりそう」最新号はこちら)、遠野から帰った方やこれからまごころネットに参加しようという方たちにも、現地で今活動しているボランティアが、何を思い、どんな努力をしているのかを伝えることが出来るようになりました。英訳作業を支えてくださった皆さん、ホームページへ掲載できるよう調整し、作業してくださった事務局の皆さんには、心から感謝を申し上げます。ボランティアに情報を提供し、活動を支える「よりそう」の存在もまた、ボランティア活動の重要な要素です。今の編集担当者の水野さんや、その後を担う皆さんにもそうした思いが受け継がれながら、「よりそう」は更によいものに成長していってくれると信じています。

3.陸前高田市上長部地区におけるインタビュー取材

「よりそう」の編集作業をさせていただいたことで、たくさんの方たちに出会え、活動の場を広げることができました。陸前高田市上長部地区へ出向いて行ったインタビュー取材も、そうした活動の一つです。

5月6日、まごころネット広報担当に依頼され、さんま隊の活動がひとまず完了した上長部地区を再訪して地元の方たちの感想を取材し、HPに報告記事を書くことになりました。(この報告記事はhttp://tonomagokoro.net/archives/545でご覧いただけます)。前日まで自分も参加していた作業について「地元の方たちの感謝の言葉を直接聞ける」という淡い期待もあって引き受けました。

ボランティアが引き上げた後の上長部地区は人影も見えず、回収し切れなかったサンマを狙って入り込んだカモメやウミネコの群れのほかは、動くものすらなく、静まりかえっていました。瓦礫の中の道でようやく出会えた男性に、津波被害を免れて近隣の被災者を受入れているお宅があると教えられ、訪ねてみました。

津波が押し寄せ、水産物がばらまかれた上長部地区

津波が押し寄せ、水産物がばらまかれた上長部地区

津波の到達地点からほんの30㍍ほどのところに住む菅野さんのご自宅には、家を失った近隣住民が、多い時で30人ほど避難していたそうです。5月6日の時点でも上長部地区最大の避難所として機能しており、自衛隊から届く支援物資なども菅野さんのご自宅へ一度集められてから分配されるということでした。

応対してくださった菅野静子さんと、たまたま菅野さんを訪ねていらした上長部地区副区長の村上久太郎さんに伺ったお話は、「被災者の感謝の言葉」を期待していた私のおごりを叩きのめす、被災地の「現実」でした。

被災翌日の3月12日には既に、町中に散乱した水産加工品の存在は住民にとって頭の痛い問題となっていたそうです。13日には比較的被害の少なかった住民が集まって、組織的に回収作業をしようと試みましたが、800㌧にも及ぶサンマ・サケ・イクラは、数十名の地域住民の手にはおえず、何よりもそれぞれに行方の知れない親族の捜索や、津波をかぶった自宅の片付に手一杯で、魚の回収にまで手が回りませんでした。

そこで、久太郎さんが中心となって市に支援を要請しました。しかし、死者1400以上の同市では、現在でも700人を超えている行方不明者の捜索が優先され、“一部地域の水産加工品の散乱”への対処は、後回しにされ続けました。

「行政へも、議員へも、思いつく限りあらゆるところに窮状を訴えたが、誰も動いてくれませんでした」

「さんまの回収をボランティアが引き受けてくれたので、その間に私たちは家のこと、家族のことに専念できたが、それも被災から1カ月も経ってからでした」

「ボランティアを利用できることも、もっと積極的に広報してもらいたかった。上長部地区は津波によって孤立して支援も遅れたので、みんな生き延びるのに精一杯だった。電話もメールも使えず交通手段も失った状況で、市役所まで行かなければボランティアの情報が得られないのでは、利用もできない」。

被災以降、地域の中心となって近隣住民の支えとなってきたお2人が叫ぶように発する言葉は切実で、2カ月近くが経過しても、まだまだ支援が行き届いていない現状を訴えるものでした。静子さんは市役所に勤務していたご子息を、久太郎さんはお連れ合いを津波で亡くされています。しかし、生き延びた者として、責任ある立場にある者として、ご自身の悲しみを後回しにして地域を支えるために尽力し、それは復興が果たされるまで続くのです。

私たちボランティアは、日常の中から何とか捻出した時間を割いて被災地に赴き、活動していますが、時が来れば帰る場所があります。否応なく、他に行き場もなく、被災地に暮らす当事者とはおのずと立場が異なります。そんな私たちに出来ることは、被災地の現実を知った者として、上長部の皆さんが心から笑える日が来るまで、被災地への関心を失うことなく心を寄せ続け、切れ目なく支援していくことではないでしょうか。

さんま隊の活動が終わっても、同地区の支援が必要なくなったわけではありません。その事実が決して忘れられることのないよう、遠野の地から情報を発信していくこともまた、まごころネットのボランティアの1つのあり方なのだと思います。今回の取材報告のような、まごころネットのホームページを活用した広報活動は、そのための重要な役割を果たしています。

また、まごころネットに参加した皆さんが地元に帰って、家族や友人、同僚に経験を話し、広めることも、当然含まれるはずです。私も「上長部でボランティアの支援を待つ皆さんのことを忘れず、人に語り、仲間を募って、またここへ戻ろう」「戻って、今度こそ謙虚な気持ちで、復興へのお手伝いをさせていただこう」。菅野さん宅を出て、再びサンマの腐臭を吸い込んだ時、そう心に決めました。


遠野最終日に河童淵近くで

遠野最終日に河童淵近くで

◆安齋由紀(あんざい・ゆき)1978年(昭53)2月生まれ。静岡・伊東市出身、東京板橋区在住。一橋大法学部卒。(社)自由人権協会職員。趣味は登山。遠野まごころネットへの参加が初めての災害ボランティア。

※上長部地区への取材では、北海道から参加されていた今城さんに車を出していただき、1日運転手兼カメラマンとしてご協力いただき、ありがとうございました。