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まごころ体験記-本当のまごころネット

<まごころ体験記⑩>

本当のまごころネット

静岡県牧之原市 大石健司

4月下旬から、遠野まごころネットのホームページの原稿を書いてきました。未曽有の大震災の惨状や復興にかける被災者の方々の奮闘ぶり、そして柳田國男の「遠野物語」刊行からちょうど1世紀後に誕生した日本初の災害被災地「後方支援民間ボランティア組織」の魅力と挑戦を、これでもかとばかりに書き連ね、1人でも多くのあらたなボランティア志望者をこの地に呼び寄せることに全身全霊を傾けてきました。

震災から3カ月たった今も、悲惨な被災地の光景

事務局の全員で「いつなんどき、どんなボランティアさんも受け入れる!」というアントニオ猪木もびっくりのポリシーをメディアにも繰り返し訴えたことも功を奏し、スタート当初は80人程度だったボランティアの数はうなぎ上りに増加。ゴールデンウイーク中に576人を記録したのを最高に、現在でも連日300人前後の志高い老若男女がボランティアとして活動してくださるまでになりました。全世界に散らばった数多くのまごころOB、OGのみなさんが、それぞれの地域や職場で、熱心な広報活動を展開してくださったおかげでもあると感謝しています。そして、3・11の悲劇から3カ月の節目を機に、一定の満足感と一抹の寂しさを胸に、故郷に帰ることを決めました。

被災地を想う気持ちは誰も同じ

この春まで、とあるスポーツ新聞社で、取材記者として約20年間働いていました。家庭の事情で3月末での退社を決意し、第2の人生を模索し始めた矢先に、あの大震災が起こりました。30年以上も前から東海大地震が予告され、大津波の襲来がささやかれる浜辺からたった1㌔の海抜5㍍の家、原発から15㌔の町に住む者として、今回の大惨事はとても人ごとには思えませんでした。4月上旬までの家業の手伝いが一息つくと、後先も考えず妻子を説得。静岡県ボランティア協会の無給スタッフに採用されるや、とりあえず2カ月間をメドに遠野にやってきました。支援物資倉庫の整理や初代サンマ隊員などを経験したのちに、経験を買われて事務局の広報隊長に就任。筆舌に尽くしがたい被災地の現状、涙なしには聞けない被災者の体験談を写真とともに、自分の判断で好きなだけ伝えることのできる日々の任務は、これまでの記者人生でもっとも充実したやりがいのあるものでした。遠野まごころネットは、恐ろしいまでに自由で、バイタリティーに満ちあふれた熱い人たちの集団です。事務局のスタッフは、それぞれが固い信念を持って、ある意味好き勝手に突き進んでいます。官庁や大企業ではありえない意思決定の速さ、フットワークの軽さ、そして誰でも受け入れる懐の広さは、この組織の最大の魅力です(危うさでもありますが…)。しかし本当は、かくいう私こそ、こうやって私見に満ち満ちた原稿を他者の校閲なしでアップし続けた〝最高権力者〟だったことを付け加えておきましょう。

奇跡の紙面に大喜び

一昨日、遠野駅近くの居酒屋「ちから」で開催していただいた送別会で、うれしい事件が起こりました。額に入れられた1995年11月の新聞の切り抜き。サッカー記者時代の私が書いた遠野生まれのスーパースター兄弟・GK菊池新吉、DF利三(ともにヴェルディ川崎=当時)の「兄弟Jリーグ制覇」の渾身の大原稿が、ユニフォームと一緒に店内に飾られていたのです。「これは奇跡ですよ。奇跡! この店に1枚しか飾ってない新聞記事なんだから!」と興奮するマスターにせがまれ、額の裏にサインまで書くはめになりました。縁もゆかりもないと思っていた北の地に、遠い昔の自分の記事を大切に飾っていてくれた人がいた。遠野滞在の最後の最後に、訪れた不思議な出来事に胸がいっぱいになりました。人間っていいですね。見知らぬ者同士が、文章を通じて知り合い、わかり合い、手を取り合って助け合える。 あなたも、遠野でまごころネットに記事を書いてみませんか?

遠野市宮守にかかるめがね橋を渡る電車

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◆大石健司(おおいし・けんじ)1965年7月2日、静岡県生まれ。早大時代には「第1回世界青年の船のスペイン語通訳」を務める。92年に某スポーツ新聞社入社後は、サッカーでドーハの悲劇などを取材。格闘技、ゴルフ担当などを歴任後、09年から故郷の静岡支局に勤務していた。家族は妻と2男1犬