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生きようと支えあった「絆の丘」:高橋勇樹さんインタビュー(1)

9月11日に東京で開催した東日本大震災6ヵ月報告会。これに関連し、実際に被災地で避難所運営のリーダーとして現場に携わり、現在も地元の青年会議所理事長として陸前高田市の復興に取り組む高橋勇樹さんにお話をうかがいました。被災後の生活から今後の復興ビジョンまで、多くのことを語っていただきました。これを読むみなさんには、陸前高田再生への想いを掴んでいただければと思っています。

陸前高田・青年会議所理事長の高橋勇樹さん

*高橋勇樹さん(陸前高田市 青年会議所理事長)

3月11日の朝は母と一緒にいつも通り出勤した。家具店を経営しているが、その日は午後から花巻市に出かけて会議中に地震が起きた。揺れが尋常ではなく、長かったので必ず津波が来ると思った。すぐに会社や両親に連絡を取ったが電話はつながらない。花巻市内も停電。急いで陸前高田に戻ったが、途中の道路は渋滞していた。 

陸前高田に着いたのが午後4時30分頃。すでに海から数キロ手前の川にゴミが散乱している状態で本当にすごい津波が来たと思った。帰る途中までは、津波は来たとしてもせいぜい2~3メートル程度の規模だろうと思っていた。まさか店や家までなくなるとは想像すらしなかった。結局、市街地には車で入れず、渋滞がひどいので歩いて家を目指した。あたりはもう暗くなっていた。高田の街は水没していて道路は泥でいっぱい。米崎町にある自宅にも辿り着けない状態だった。誰とも連絡がつかず困っていたところ、「第一中学校が一番大きな避難所になっている」と知人に聞いたので、(陸前高田の)第一中学校を目指した。 

第一中学校ではすでに数百人の方が避難していて、みんなうつむいていた。(発電機を使って)投光機を照らし、ストーブもついていたが、とても暗いムードだった。母や従業員のみんなを探したが見当たらなかった。そこで地元の避難所に行こうと考えて、第一中学校を出ようとしたところ、うしろから「お前にできることがあるだろう」と語りかける声がした。うちの母だったような気もする。ちょうど私はパソコンやプリンターを持って避難していたので、第一中学校に戻って避難者の名簿作成をやろうと思った。市内で一番大きな避難所なので生きていれば必ずここで会えると信じて、第一中学校でボランティアをしながらずっと待っていた。 

夜が近づくにつれて、いろいろな人が避難してきた。私の友人も来た。「津波に流されたけど何とか助かった」、「津波に流されながら母の手をしっかりと握っていたが勢いが強くて手を離してしまい、母が亡くなってしまった」、「市民会館や市役所に避難した人たちはおそらく全員だめだ」、「高田の街が水没している」など本当に信じられない話ばかり聞いた。「俺の奥さんを見かけたら声をかけてくれ」と言う人もいた。暗闇のなかで投光機の明かりひとつにみんなが寄り添い、毛布がないかわりにカーテンを外して、体育館の床に敷き詰めた。カーテンを外すともっと寒くなるのではないかという声もあったが、みんなで寄り添いながら暖を取り、不安な気持ちで最初の一晩を過ごした。 

震災直後の高田一中、自分たちでボランティアを組織

私はそのまま避難所のスタッフになったが、避難所ではやはり眠れない。気持ちが穏やかではないことを紛らすためにずっと名簿作りをしていた。体育館に避難している他の人たちも熟睡できた人はまずいないと思う。 夜が明けて、隣の住田町から炊き出しのおにぎりが届いた。それまで何も食べずにほんの少しの水だけで過ごしていたので、おにぎりが来た時はみんな嬉しかった。(避難所の人数は)3月12日が最も多く、1200~1500人ぐらいいた。それから1000人、800人と次第に少なくなっていった。他の避難所に移った人や、親戚を訪ねて遠方に避難した人もいた。朝が来るとみんな少しだけ元気になる。しかし、夜が近づくと今夜もまた寒いのかと不安になり、空気が沈む。3月19日に電気が復旧するまでこのような状態がしばらく続いた。 

私は青年会議所の理事長という立場にあったが、当時は何が正しい行動なのか本当にわからず自問自答を続けていた。避難所運営のボランティアをしてみんなと一緒に生きようと頑張っていること自体が正しいのか、それとも母親を探しに行かなければならないのか、それとも仕事を早く再開したほうがよいのか――― いろいろな選択肢があるなかで、とにかくみんなで生き残ろうという思いでボランティアを続けていた。「ボランティアばかりしていないで母親を探してきたら」と言われることもあった。それはよくわかるが、何よりもみんなが大変な状態。片方の親御さんがいないとか、子供さんがいないなど同じような境遇の人が避難所にもたくさんいるのに、ボランティアとして関わっている自分だけが現場を抜けて、そのような人たちを見捨ててしまうのはどうなのか?4月も5月もずっと自分のなかで葛藤していた。同じような境遇の人が支えあい、みんなで頑張って生き残ろうとしている。その状況を見てしまうと自分のことより、今はみんなで生き残ることだと(自分に)いいきかせていた。そういう人はきっと多かったのではないかと思う。

―――4月の段階では外部からのボランティアの受け入れが難しかったようだが

あまりにも被災して亡くなった方が多く、市役所も混乱している状態。ボランティアをコーディネートした経験がない人が多いという状況で、そこまで力をさく余裕がなかった。実際に第一中学校にも多くのボランティア希望の方が来てくださって、登録もした。しかし、結局何か仕事を頼もうとしても1日や2日でいなくなってしまう。当時、私たちが求めていたのは、長期間、一緒に業務に取り組むことができてシフトを作れる人だった。例えば3日交代とか。そういう事情もあり、しばらくは自分たちでやらざるを得なかった。 

自分たちで避難所のボランティアを組織した理由はもうひとつある。阪神大震災で大事だったことは「被災者の自立」だった。3月12日の段階で避難所内の会議を開き、被災者の自立を促す行動をしようという話になった。落ち込んでばかりいてはだめだから、みんなで何かに取り組み、少しでも活力を取り戻していくことを目標として(被災者自らによる)ボランティアを募って運営に取り組んだ。 

避難所の名前が“絆の丘”へ

避難所の運営でまず大事だったのは、「暴動を起こさない」こと。避難所内で何かもめごとが起きたら収拾がつかない。物資の取り合いなどに発展したら大変だ。そういうことを避けるためにも「ひとりはみんなために、みんなはひとりのために」をスローガンに掲げた。(このスローガンを書いた紙を)施設内のあちこちに張り、みんな同じ気持ちで取り組もうと呼びかけた。もちろん、避難所生活のなかで小さなもめごとやいざこざはあったが、膝を交えて話合うことでひとつひとつ解決した。 

5月1日に第一中学校が「絆の丘」という名称となり、避難所の自治会組織を立ち上げた。それまでは運営に四苦八苦していたが、新たに避難所の使用目的や、一人あたりの使用スペースなどこれまで不明確だった問題を整理してルールを統一した。トイレ掃除や、朝のラジオ体操、食事の後片付けや配膳なども班ごとに分担し、一日交代で行うようになった。避難生活のなかで何も仕事をしない状態が長く続くと、自立できなくなりかねない。今は義援金などを頂いて何とか生活ができていても、長い目で見た場合に決してそれだけでは十分ではない。自分で仕事をしていかなければ生活は維持できない。そういう人をなるべく出さないためにも自立を促していくことは重要だった。

(聞き手:高橋和氣、まとめ:高崎美智子)

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