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長部秋日記

・出会い

鉄橋がねじ曲げられたまま川面に突き刺さっていました。車両は握りつぶされた紙くず同然で転がっておりましたし、家々もおびただしい瓦礫と砕かれて打ち寄せられていました。街の痕跡がいくつか残るだけで、あとは見渡す限り何もなかった。やけに空が広く感じられたたことを覚えています。2011年4月6日の、陸前高田市と私との出会いです。

以後、青物やミルクを自車に積み、延々と続く自衛隊の車列に混じって、県境に位置する気仙町や広田半島をまわり、避難所や村々で生き続ける人々を訪ね歩く日々が始まりました。そして出会ったのが、気仙町上長部地区でした。
大きな避難所に身を寄せる人々が風呂や洗濯の水に苦労している最中、この集落の農家で避難生活を送る10家族ほどの人々は、小さな沢水で、洗濯、炊事、即席の薪風呂をまかなっておられました。また貰い風呂に来られる方もあったようでした。この集落自体も大半の家が流されていましたし、周囲の風景も高田市街地と変わらないほどの惨状でしたが、ここを訪れるときは、ほっとさせてくれる何かを感じたものです。人間にとって、本当に大切なものとは何なんだろうかと考えさせられた光景でありました。
以来7ヶ月。サンマ隊、瓦礫撤去、ヒマワリ畑……と、この集落とのご縁は続き、現在では、農地復耕を経て、村の人たちとともに村(コミュニティ)を復興させてゆく段階を迎え始めています。もう少し早くから、こうした動きをお伝えしたかったのですが、冬を前した農地の復興作業や春に向けての種まき作業に追われる日々が続いておりました。それもようやく目処がついて参りましたので、この辺で少し、上長部・秋の物語をまとめてお伝えさせていただきましょう。

・ヒマワリの収穫

この畑に蒔かれた種は、三重県でバイオディーゼルの燃料用に試験栽培を行われている方からのご支援でした。「今年の畑でとれた種を、油にしないで持ってきた」と語られた言葉が心にしみました。
7月初旬、瓦礫撤去の重機がうなりを上げるなかで、復耕活動初めての種まきが行われました。作業の遅れから、花をつけることができるのかという声もありましたが、8月には大輪の花をつけ、仮設・在宅を問わず、この地で暮らす人々の心を照らしてくれました。
収穫作業は、10月12日~14日にかけて、まごころ百姓隊の提案者でもある魚路さんを中心に、山形からのお百姓さん達、瓦礫隊で参加してくれた方々で行われました。

・友達の穫れる畑

次は、「つどいの畑」の報告です。4月当初は、ここにも大量の瓦礫・サンマ等が打ち寄せられていました。ヒマワリ畑に続いて土中の瓦礫撤去作業が行われた畑です。

大船渡の農業改良普及センターに依頼した検査では塩分濃度は大丈夫との結果でしたが、実際に菜っ葉類が育つ姿を見るまでは、この地で畑がやれるのか不安な気持ちでした。
今では、仮設・在宅を問わず、上長部地区在住のお母さん方が入り交じって作物を作り、収穫する「つどいの畑」となりました。「私ら皆、別々のところからここにきたの。
 この畑で出会って、お友達になったのよ。」と語ってくれるお母さん達もいて、実ったのは、作物だけではなかったんだなあと感じているところです。

・果てしないもの

さて、畑や水田の土中には、今でもガラスや鉄片などの瓦礫や石が大量に埋まっています。イクラのビニールパックが腐敗した状態で出土することもあります。こうした土中の瓦礫を拾い出すためには、トラクターで土を起こし、手作業で拾い出し、再びトラクターを入れ、さらに拾ってゆくという作業をひたすら繰り返すことになります(地表の瓦礫整理のため大型重機で踏み固めてしまった農地の場合は、再度土を掘り起こしてからの清掃作業となります)。程度のよい畑で10日程の作業を要しますので、天候やボランティアさんの数にもよりますが、月に3~4枚がやっとという作業状況です。

こうした村々や農地が、福島から岩手までずっと続いている、そして、こうした村々で暮らし続けている方々の大半がお年寄り達であることを思うと、胸がつぶれるような、果てしない気持ちになります。
申し訳ないけれども、私たちにはご縁をいただいた村々、現場にしか行けない。今出会っている人々や現場と精一杯向き合うことしかできない。それでも、ひとつの村の復興をやり遂げることができれば、帰れる場所を失ったまま仮設住宅で暮らしている人々への希望になれないか……。
8月の炎天下、陽を遮るものが何もない畑で、黙々と瓦礫を拾い続けてくれたボランティアさん達。「私、何もできないけれど、息子の車で仮設住宅に送ってもらうとき、皆さんに手を合わせているのよ」と伝えてくれたお婆さんもありました。

・親父達の小屋作り

そうした日々を重ねることが、やがて実を結ぶときを迎えたのでしょうか。村の親父さん達が、ボランティア向けの日除け小屋を建て始めます。津波で立ち枯れとなった直径30cm級の杉の木を伐りだし、皮をむき、あちこちの仮設で暮らすお父さん達にも声をかけて、とうとう大きな丸太小屋を完成させました。「30年はもつよ」とか。お金にはならないけれど、仕事をするお父さん達の姿には、喜びのようなものを感じました。

・村の原景

親父達の小屋のお披露目を兼ねた「おさべ復興秋祭り(10月10日)」には、在宅・仮設を問わず、近在から190世帯500人以上の人々が集まってくださいました。かつて住宅地であった場所が、今ではグランドとなり、こうした催しや、子どもたちのための遊び場となったのです。グランドに置かれたテーブルを囲んで、元の住人達が再会を果たし、話し込む姿が印象的でした。

・春を蒔く

10月18日。これまでに土中瓦礫の片付けを終えた約1町歩の田畑に、いよいよ6反の小麦と4反の菜種を蒔く挑戦が始まりました。
 畑地に糸を張り、約30人が横並びになって小麦の種を蒔いていきます。その先では、最後の瓦礫拾いと整地作業が行われています。また隣接する別の畑では、ペットボトルを利用した菜種の種まきが平行して行われ、その後からはレーキを持った部隊が覆土をしていきます。それらがすべて畑全体に散らばって同時に進行する様は圧巻でした。
地元のお父さんやお母さん達も飛び入り参加してくれ、10月21日までの4日間で、すべての畑の種まきを完了させることができました。ボランティア参加者の減少で部隊運営が難しくなっているなかで、人員をさいて協力してくださった大槌や箱崎の隊長さん達、ありがとうございました。

 

・「まごころ広場 おさべ(仮)」の誕生

サンマ作戦から6ヶ月。ひたすら瓦礫撤去や石拾いを続けてきたのは、もちろん農地復興のためですが、「来年の春、被災1周年を迎える頃、村を緑の麦で彩りたい」という想いも込められていました。そして何よりも、ずっとこの村で暮らしてきた人や、この地区の仮設に新しく移住してきた人とも、一緒に復興してゆくという流れをわかち合いたいという願いが込められた作業でありました。
今私は、小麦の芽吹きが村の谷筋に沿ってずっと伸びている様を眺めています。そして、これまで上長部の地に関わってくれた膨大な数のボランティアさん達のひとり一人に、あなた方の汗で培ったきた上長部の村がここまで大きく変わったことを、感謝を込めてお伝えしたいと思いました。皆さん、本当にありがとうございました。

もうひとつ、お伝えすることがあります。この冬、親父達の小屋では薪が焚かれ、新たな集会所となるでしょう。お年寄り向けの雑貨屋やピザ窯、製材所、共同薪風呂など、夢は膨らみます。11月末には、丸太小屋の横にプレハブ棟がもうひとつ寄贈されます。地元の人々とともに、まだまだ苦しい思いをしている方々を見守る点になればと思っています。
 そのための作業は、冬も続きます。是非、長部の今の姿を見に来てください。できれば一緒に村を復興させていきましょう。

(文責 まごころネット事務局スタッフ 齋藤正宏)