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ボランティアは被災地の閉塞感に対する「潤滑油」に  …分かち合い隊

4月下旬に発足した「分かち合い隊」は沿岸部の避難所などで活動しています。震災から2カ月、避難所で暮らす人たちはボランティアに笑顔で接してくれ、表面的には震災直後の混乱期を乗り切っていらっしゃるように見えます。しかし、いざ腰を据えて話してみると、言葉の端々や表情に不安が垣間見え、新たなストレスや閉塞感を覚えているのが分かりました。ここでは主に陸前高田市内のある避難所を例に、我々が感じた被災地の現状を報告したいと思います。

分かち合い隊のロゴ

分かち合い隊のロゴ

新たな不安、描けない「青写真」

陸前高田市では仮設住宅への入居が本格化し、避難所でもその話題で持ちきりです。建設が進む仮設住宅を眺めて「早く入りたいな」とつぶやく人がいれば、「この人は寝言でも『仮設に当たった(仮設住宅の抽選に当たった)』と言ってるんだよ」という笑い話が飛び出すほど。避難所では何世帯もが雑魚寝し、プライバシーを保てないような毎日。相当の気疲れを感じているからなのでしょう。仮設住宅に入れば、ようやく自分たち家族だけの時間が持てるのです。しかし、仮設住宅での暮らしを目前に控え、お年寄りの世帯などでは別の不安を感じ始めているようにも感じました。 「(仮設住宅の入居期限の)2年が過ぎたら、どうすればいいんだろう」とAさんは話します。自宅は津波に流され、今は娘さんと2人で避難所暮らし。「私も娘も年だし、銀行はお金を貸してくれないと思う。2年の間に家を建てることなんて無理」。 Bさんも同じ不安を抱いていました。「仮設は2年経ったら追い出されてしまうのでしょうか。その後はどこに行けばいいのでしょうか」。さらにBさんは「罹災証明は何に使うのか」「仮設が当選したらどうやって連絡が来るのか」などと分かち合い隊メンバーを質問攻めにしました。役場に申請する手続きの煩雑さなどにも苦労しているようです。避難所ではいつも誰かがそばにいてくれますが、仮設住宅に入った後は分からないことを気軽に聞くことも難しくなります。 仮設住宅には入りたいけれど、入居後は別の困難が待ち受けているのではないか…。被災者の中にこのような不安が生まれる原因の1つには、情報不足があると考えられます。例えば阪神大震災では仮設住宅の入居期間が延長されており、今回の震災でもすでに政府が期間延長の方針を打ち出しています。つまり入居期間の「2年間」という数字は厳格なものではないということです。また今後は国や地方自治体も被災者に対する住宅整備や助成制度などの支援策を充実させていくはずです。こうした情報を誰かが分かりやすく伝えるだけでも、不安の一部は取り除かれると思います。 ただ同時に、不安の根源は将来に対する「青写真」を描けないことではないかとも感じました。5年後あるいは10年後、この街がどのように復興していて、自分がどんな風に暮らしているのか。その予想図が見当付かないせいだと思うのです。 先が見えず、じわじわと広がる不安感。Aさんが窓の外をぼんやりと見ながら、ぽつりと口にした一言が思い出されます。「考えていても何も出てこないし、暗くなっちゃうだけだから、いつもこうして雲を見ているの」。

 

気兼ねして見えないところでぎくしゃく

「車(マイカー)の中だけがプライベート空間。避難所から『避難』したい時には車に行くんだ」避難所で暮らすCさんは自嘲気味に打ち明けてくれました。しかしその「プライベート避難所」にもそう度々は行けないのだそうです。「車で出かけると必ず『どこ行ってきた?』。『何してきた?』と詮索されちゃう。それが面倒でね…」。小さな集落、誰もが顔見知りだからこそ感じる窮屈さ。「まあ、仮設に入るまでの辛抱かな」。そう言ってCさんは首をすくめました。 被災者の中には公設の避難所(小学校や公民館など)ではなく、親類の家などに身を寄せている人も多くいます。避難所よりも快適な場所に寝泊まりしているはずなのに、そうした人たちも窮屈な思いに縛られていました。Dさんは震災後、母方の親戚の家に泊まっています。しかし避難所で3食をとり、日中のほとんどの時間を避難所で過ごしていました。「親戚と言っても、今まであまり付き合いをしていなかったから。言いたいことは言えないし、どうしても遠慮してしまう」。Dさんの父親は妻の親戚の家で世話になることを拒み、2カ月経った今でも車の中で寝ているとのことでした。 逆に、被災者を受け入れている家庭の方でもストレスを感じているようです。津波で流されなかったEさんの家には、被災した親類数世帯が避難しています。Eさんが頭を悩ませるのは震災後の光熱費。陸前高田市の場合、公設の避難所の光熱費は無料になりましたが、Eさん宅のような一般住宅は従来通りに請求されてしまいます。「せめて携帯の充電なんかは、電気代が安い深夜にしてくれると助かるんだけれど…」。Eさんは被災した親戚に気兼ねして、注意したいことでも心に溜め込んでいました。 被災が大きかった人と小さかった人との間に精神的な溝も生まれています。Fさんは津波被害があった集落で店を営んでいました。幸いにもお店は津波による被災を免れ、震災から数日後には再開できました。「少しでも早くみなさんの役に立ちたいと思って店を開けたんだ。でも『こんな時に金儲けをしてる』と陰で嫌味を言う人がいてね。町内会の集まりには出にくくなっちゃった」(Fさん)。「泥をかぶった家」と「かぶらなかった家」。ちょっとしたやっかみがきっかけで、今までの関係が壊れてしまうこともあるようです。 我々がボランティア活動している地域は都会と比べ、コミュニティ内の関係が緊密です。人々の連携が強い分、避難所の運営などがうまく回っているところもある半面、笑顔の陰に小さな不満や窮屈さを押し隠している人たちもいるように見えました。 彼らが心の奥底にしまいこんだ本音を話してくれたのは、我々が「よそ者」だったからかもしれません。身近であればあるほど気兼ねして言えなくなってしまうことであっても、他人になら打ち明けられる場合があるからです。 「よそ者」(ボランティア)に話すことで、行き場のない不満を抱えた彼らの心に一瞬でも風が吹いたのなら、これほどうれしいことはありません。そしてその風によって、同じ被災地の中に存在する「温度差」が少しでも小さくなってくれればと願いました。

 

いまだ「陸の孤島」に暮らす交通弱者

陸前高田市は津波により市役所を含めた中心市街が壊滅し、街の機能のほとんどが失われました。我々が活動している避難所にも徒歩圏内に店が1軒もなく、震災から2カ月が経ってもなお、車で30分ほど行かなければ買い物をすることも銭湯で入浴することもできないところがあります。 ただ、それでも自分で車の運転ができる比較的若い人たちは、まだ恵まれていると感じました。毎日ではないにしろ、自分で銭湯に行ったり、気晴らしに買い物に出かけたりもできるからです。 一方、本当に気の毒なのはお年寄りを中心とした「交通弱者」の人たちです。道路は復旧していても、彼らにとってはまだ陸の孤島状態が続いているからです。 例えば入浴。陸前高田市は現在も多くの地域で断水になっています。避難所と入浴施設を往復するサービスはありますが、送迎バスが待っていてくれるのは30分だけです。車から降りて、車に戻るまでを30分以内に済ませないといけません。脱衣所まで行って服を脱ぎ、風呂に入り、また服を着てという作業を考えると、「湯ぶねに浸かる時間はほとんどない」と話すお年寄りもいて、その気忙しさからサービスを利用するのを遠慮している人までいました。 通院を心配する声も聞かれます。Gさんには持病があるため、定期的に病院に通って薬をもらってくる必要があります。しかし自分では車の運転ができません。「今は避難所の近くに(震災後に特設された)診療所があるからいいけど、仮設に入ったらどうしたらいいだろう」とFさん。いざとなったら車を出してくれる親類がいるそうですが、「病院が開いているのは日中。仕事を休んでもらってまで、『薬を取りに行くから病院まで送ってほしい』とはお願いできないし・・・」。もし病院が仮設住宅から遠かった場合、Fさんはタクシーを使わないといけないと考えています。「でもタクシー代も馬鹿にならないし…」。そう言って、表情を曇らせました。 我々はこれまで何回か、お風呂になかなか入れないでいる人たちを入浴施設に送迎しました。そもそもそうした送迎を想定していて動いていたわけではないので、たまたま時間に余裕がある時に限られた人数の送迎をしただけではありましたが。 ただ、形にとらわれずに柔軟に動けるという点こそがボランティアの利点だと思います。そしてその利点に気づかせてくれたのが、遠野まごころネットでした。我々が最初、「時間が空いたので、避難所の何人かをお風呂に連れて行きたいのですが」と電話で相談した時、まごころネット事務局は「そうしてあげれば、きっとお年寄りも喜ぶでしょうね。ただし事故にだけは気をつけてください。ボランティアの原則は『自己完結』ですから」と後押ししてくれました。行政や専門機関による支援だけでは埋め切れない「隙間」を埋めていくのがボランティアの役目なら、交通弱者の人たちに対する支援の方法もきっとあるはずだと思います。

壊滅的な被害を受けた陸前高田市街地に咲くタンポポ

壊滅的な被害を受けた陸前高田市街地に咲くタンポポ

以上、分かち合い隊のメンバーが現地で見聞きしたことを語ってきました。 震災から2カ月が経ちました。仮設住宅への入居などを機に、今後は被災者も日常生活を段々と取り戻していくことでしょう。そして支援する側の軸足も、物資や義援金といった「物的支援」から生活再建や「心の支援」へとシフトしていくと思います。 そうした中、ボランティアには何ができるのでしょうか。ひょっとすると、「よそ者」だからこそできることがあるのかもしれません。 これから先も多くの困難に立ち向かわなければならない被災地とそこで暮らす人々。彼らにとってボランティアが「潤滑油」のような存在になれれば。そんな願いを込めながら、この報告を終わります。