遠野まごころネット

遠野被災地支援ボランティアネットワーク遠野まごころネット

印刷用ページを表示 印刷用ページを表示

バイクなき遠野紀行

2011年4月29日  21時28分

<まごころ体験記②>

バイクなき遠野紀行

神奈川県川崎市        東 賢太郎

想像を超える大反響だった。大津波で中心部が壊滅状態となった大槌町のとある避難所。30人近い地元のおばさまたちが、少女のように目を輝かせ、私が持参した支援物資の化粧品を歓声を上げながら手に取っている。震災から50日、彼女たちはどんなにこれを待ち望んでいたのだろう…。わずか15分で段ボール3箱分が空になった。

大喜びで化粧品を手にする大槌町のみなさん

大喜びで化粧品を手にする大槌町のみなさん

「スタッフの皆へ。岩手県で1週間、お手伝いさせてもらいながら、心と身体を鍛えてくるよ。後を宜しく頼むね。HEADより」。 先週、遠野に向かう朝。経営する化粧品店のスタッフに私が残した置き手紙である。 川崎在住の62歳の私は、いつもなら毎年この時期には、趣味のバイクでのんきに気の向くままに一人旅をしていた。今年1月からエステサロンも開業した。スタッフも増え、店全体をいかに高い次元でクオリティーコントロールすべきか悩みながら、例年以上に社員教育にこだわってた。「最近のヘッドは厳しいよね~」。なんだかそんな声が聞こえる気がして、信頼するかわいいスタッフたちに「ストレスを与えすぎてないだろうか?」。少し心が痛む思いでいた。そんな矢先に起こったこの大震災。報道を見聞きして、被災された方々の心の痛みは、私のそれとは比較すらできない些細なことだったと思い知った。あまりにも次元が違いすぎる。 4月に入ってから東北に向かうつもりで情報収集を始めたが、現地の状況を知れば知るほど、家族や仲間たちとボランティアの意義を語れば語るほど「早く動かねば…」と焦った。しかし、「現地はまだ混乱している?」「どの地域がどんな状態か認識してから出かけよう」「どこが手薄か?」「どのタイミングが良いのか」。そんな思いで出そびれていた時、この遠野まごころネットのサイトを見た。まだ立ち上から日の浅いサイトだったが、温かみを感じさせる内容に心を決めた。「遠野に行こう!」。私はその2日後に出発した。 23日に到着し、センターの体育館にマットと寝袋で寝泊まりを始めた。まだ地方からのボランティアは少なかったと思う。初日の仕事は、大槌町の被災家屋への布団の宅配だった。大槌町は釜石の隣に位置する小さな漁港の町で、まごころネットのある遠野市から西へ約40㌔、峠の山道を車で1時間20分ほどの距離だった。海に向かう街道沿いはのどかな畑が続き、四方を囲む山々が遠野の里を静かに包み込んでいる。「遠野物語」を生んだこの里はもうすぐさわやかな新緑の季節に入るのだろう。トラックの助手席でカーブだらけの笛吹き峠を越えるまで、いつものバイクツーリングと同じ自然の中を走る爽快感を覚え、しばし目的を忘れていた。
建物の上に遊覧船が乗っている、大槌町沿岸

建物の上に遊覧船が乗っている、大槌町沿岸

1キロほどのトンネルを抜けて視界が開くと景色は一変した。私は言葉を失い、胸が詰まった。港へ流れ込む大槌川の浅瀬や土手には、建物の残骸だけでなく、泥に埋もれた横倒しの車。形を失った家電製品やピアノまでも無残なガレキとなって延々と続いていた。津波で港付近から押し流され、上流の家屋の家財を飲み込んでここまでやってきたのだろう。 さらに港付近まで進むと、見渡す限り形あるものはない。ただガレキの撤去が済んだ道路だけがここにあった街の痕跡を残していた。幸い早く避難して救われた人々は周辺の施設や民家に身を寄せているが、確認された死者や行方不明の方々はまさに未曾有の数だ。付近は、時たま支援の車が行きかうばかりで人影は見えない。 港から少し奥に入り、崩壊は免れたが一階の天井まで浸水した住宅地に着いた。その日は各家庭を回って布団を届ける仕事を手伝った。ご近所同士の団結が強い地区で、皆さん協力し合って片付けている。おばさまたちから「ねえ。化粧品も全部流されちゃってさ。そろそろこんな顔じゃね。(支援)物資に化粧品ないかしら?」と明るい笑顔で聞かれた。化粧品屋として、これを受けて立たなくては男がすたる。さっそくわが店に電話し、メーカーさんの協力も得てダンボール3箱分を取り寄せた。そして今日30日、冒頭に書いた感激のシーンにたどり着いたのだった。 2日目は床上浸水した一般家屋の床下の泥の撤去を手伝い、3日目からは事務局のお手伝いをした。いつもの仕事の要領で「テキパキとこなして役に立とう!」。だが、その思いは甘かった。「何をどう処理をすることがベターか?」。戸惑いを持ちながらの作業は、一向にはかどらない。20人ほどの主力スタッフが、電話や段取りに、書類作り、現場に会議にと、奔走する姿に気後れもしながらも、いくつかの仕事を必死にこなした。 この事務局の人々はボランティアでありながら、役割に対する熱意とパワーが凄い。みなそれぞれの分野の知識や技術に精通したスキルの高い人の集団だった。 そしてなにより、自分達は長時間で休み日も取れないほどでありながら、一般のボランティアの健康、安全、メンタリティに対してとても気配りしてくれる。この素晴らしい集団に自分も参加できたことに感謝したい。
20年前にロサンゼルスで買ったお気に入りのスタジャンを着て。とても62歳には見えない

20年前にロサンゼルスで買ったお気に入りのスタジャンを着て。とても62歳には見えない

事務仕事で終わるのは、少し心残りと感じ、昨日は現場に向かうことにした。地元のNPOの若者と2人で、全国からの支援物資の集積所から自宅で支援を待つ家を探し物資を届ける仕事だった。「ここまでなかなか(物資が)届かないのでとても助かります」。その言葉に力をもらいながら「ほかに困っている品はないですか?」と新たなニーズを聞き出し、それを本部がとりまとめ、可能なものは後日届ける。これらのシステムがほぼ確立されている。(素晴らしい!) 連休に入り200人以上のボランティアが集まり始めた。明日以降もその数はさらに大きく増えそうだ。だが、一方で連休後の人手がまったく足りない予測だという。被災地の完全復興には5年も10年もかかるかもしれない。全国の人々が、今だけの、連休中だけの支援で忘れてしまっては意味がないのでは、とも思っている。この地で一緒に汗を流し、語らった全国からのボランティアの皆さんとの絆が、それぞれ各地の人々へリンクし、支援の輪がいつまでも続くことを望みたい。 私は「現地に行ってお手伝いをさせていただき、人々と交流し、身体で感じ、いつまでもこの思いを継続し、一緒に闘う気持ちを持ちたい」。その一心でここに来た。最後に、私に思いを託して快く送り出してくれ、何度もエールのメールを送ってくれた家族やスタッフたちにも感謝したい。 私は今夕、遠野を後にする。今まで毎年、日本中を、そして海外をバイクで一人旅してきたが、これほど強く、後ろ髪を引かれる思いで帰路につくのはこれが初めてだ。私がまたこの地を訪れ、遠野まごころネットの仲間たちを訪ね、再び一緒に活動するのは、遠い日でないことを確信している。次回は、愛車のバイクに乗って…。 ……………………………………………………………………………………

◆東賢太郎(あずま・けんたろう)1948年(昭23)7月17日、鹿児島県生まれ。3歳で家族とともに上京。28歳で脱サラして化粧品店をオープン。現在は川崎市高津区で「株式会社ジュネット」代表取締役を務める。趣味のバイクで91年にシルクロードを走破して以降、毎年長期休暇をとって全世界を旅している。昨年は米国を縦断した。家族は妻と2女。全員で家業を頑張っている。

原稿を執筆中の東さん

原稿を執筆中の東さん

 

<まごころ体験記②> バイクなき遠野紀行

神奈川県川崎市        東 賢太郎

 

大喜びで化粧品を手にする大槌町のみなさん

想像を超える大反響だった。大津波で中心部が壊滅状態となった大槌町のとある避難所。30人近い地元のおばさまたちが、少女のように目を輝かせ、私が持参した支援物資の化粧品を歓声を上げながら手に取っている。震災から50日、彼女たちはどんなにこれを待ち望んでいたのだろう…。わずか15分で段ボール3箱分が空になった。           

 

「スタッフの皆へ。岩手県で1週間、お手伝いさせてもらいながら、心と身体を鍛えてくるよ。後を宜しく頼むね。HEADより」。

先週、遠野に向かう朝。経営する化粧品店のスタッフに私が残した置き手紙である。

川崎在住の62歳の私は、いつもなら毎年この時期には、趣味のバイクでのんきに気の向くままに一人旅をしていた。今 年1月からエステサロンも開業した。スタッフも増え、店全体をいかに高い次元でクオリティーコントロールすべきか悩みながら、例年以上に社員教育にこだ わってた。「最近のヘッドは厳しいよね~」。なんだかそんな声が聞こえる気がして、信頼するかわいいスタッフたちに「ストレスを与えすぎてないだろう か?」。少し心が痛む思いでいた。そんな矢先に起こったこの大震災。報道を見聞きして、被災された方々の心の痛みは、私のそれとは比較すらできない些細な ことだったと思い知った。あまりにも次元が違いすぎる。

 

4 月に入ってから東北に向かうつもりで情報収集を始めたが、現地の状況を知れば知るほど、家族や仲間たちとボランティアの意義を語れば語るほど「早く動かね ば…」と焦った。しかし、「現地はまだ混乱している?」「どの地域がどんな状態か認識してから出かけよう」「どこが手薄か?」「どのタイミングが良いの か」。そんな思いで出そびれていた時、この遠野まごころネットのサイトを見た。まだ立ち上から日の浅いサイトだったが、温かみを感じさせる内容に心を決め た。「遠野に行こう!」。私はその2日後に出発した。

23日に到着し、センターの体育館にマットと寝袋で寝泊まりを始めた。まだ地方からのボランティアは少なかったと思う。初日の仕事は、大槌町の被災家屋への布団の宅配だった。大槌町は釜石の隣に位置する小さな漁港の町で、まごころネットのある遠野市から西へ約40㌔、峠の山道を車で1時間20分 ほどの距離だった。海に向かう街道沿いはのどかな畑が続き、四方を囲む山々が遠野の里を静かに包み込んでいる。「遠野物語」を生んだこの里はもうすぐさわ やかな新緑の季節に入るのだろう。トラックの助手席でカーブだらけの笛吹き峠を越えるまで、いつものバイクツーリングと同じ自然の中を走る爽快感を覚え、 しばし目的を忘れていた。

建物の上に遊覧船が乗っている、大槌町沿岸 1㌔ほどのトンネルを抜けて視界が開くと景色は一変した。私は言葉を失い、胸が詰まった。港へ流れ込む大槌川の浅瀬や土手には、建物の残骸だけでなく、 泥に埋もれた横倒しの車。形を失った家電製品やピアノまでも無残なガレキとなって延々と続いていた。津波で港付近から押し流され、上流の家屋の家財を飲み 込んでここまでやってきたのだろう。

さ らに港付近まで進むと、見渡す限り形あるものはない。ただガレキの撤去が済んだ道路だけがここにあった街の痕跡を残していた。幸い早く避難して救われた 人々は周辺の施設や民家に身を寄せているが、確認された死者や行方不明の方々はまさに未曾有の数だ。付近は、時たま支援の車が行きかうばかりで人影は見え ない。

港 から少し奥に入り、崩壊は免れたが一階の天井まで浸水した住宅地に着いた。その日は各家庭を回って布団を届ける仕事を手伝った。ご近所同士の団結が強い地 区で、皆さん協力し合って片付けている。おばさまたちから「ねえ。化粧品も全部流されちゃってさ。そろそろこんな顔じゃね。(支援)物資に化粧品ないかし ら?」と明るい笑顔で聞かれた。化粧品屋として、これを受けて立たなくては男がすたる。さっそくわが店に電話し、メーカーさんの協力も得てダンボール3箱 分を取り寄せた。そして今日30日、冒頭に書いた感激のシーンにたどり着いたのだった。

2 日目は床上浸水した一般家屋の床下の泥の撤去を手伝い、3日目からは事務局のお手伝いをした。いつもの仕事の要領で「テキパキとこなして役に立とう!」。 だが、その思いは甘かった。「何をどう処理をすることがベターか?」。戸惑いを持ちながらの作業は、一向にはかどらない。20人ほどの主力スタッフが、電話や段取りに、書類作り、現場に会議にと、奔走する姿に気後れもしながらも、いくつかの仕事を必死にこなした。

この事務局の人々はボランティアでありながら、役割に対する熱意とパワーが凄い。みなそれぞれの分野の知識や技術に精通したスキルの高い人の集団だった。

そしてなにより、自分達は長時間で休み日も取れないほどでありながら、一般のボランティアの健康、安全、メンタリティに対してとても気配りしてくれる。この素晴らしい集団に自分も参加できたことに感謝したい。

20年前にロサンゼルスで買ったお気に入りのスタジャンを着て。とても62歳には見えない 事務仕事で終わるのは、少し心残りと感じ、昨日は現場に向かうことにした。地元のNPOの若者と2人で、全国からの支援物資の集積所から自宅で支援を待 つ家を探し物資を届ける仕事だった。「ここまでなかなか(物資が)届かないのでとても助かります」。その言葉に力をもらいながら「ほかに困っている品はな いですか?」と新たなニーズを聞き出し、それを本部がとりまとめ、可能なものは後日届ける。これらのシステムがほぼ確立されている。(素晴らしい!)

連休に入り200人以上のボランティアが集まり始めた。明日以降もその数はさらに大きく増えそうだ。だが、一方で連休後の人手がまったく足りない予測だという。被災地の完全復興には5年も10年 もかかるかもしれない。全国の人々が、今だけの、連休中だけの支援で忘れてしまっては意味がないのでは、とも思っている。この地で一緒に汗を流し、語らっ た全国からのボランティアの皆さんとの絆が、それぞれ各地の人々へリンクし、支援の輪がいつまでも続くことを望みたい。

私 は「現地に行ってお手伝いをさせていただき、人々と交流し、身体で感じ、いつまでもこの思いを継続し、一緒に闘う気持ちを持ちたい」。その一心でここに来 た。最後に、私に思いを託して快く送り出してくれ、何度もエールのメールを送ってくれた家族やスタッフたちにも感謝したい。

私 は今夕、遠野を後にする。今まで毎年、日本中を、そして海外をバイクで一人旅してきたが、これほど強く、後ろ髪を引かれる思いで帰路につくのはこれが初め てだ。私がまたこの地を訪れ、遠野まごころネットの仲間たちを訪ね、再び一緒に活動するのは、遠い日でないことを確信している。次回は、愛車のバイクに 乗って…。

……………………………………………………………………………………

◆東賢太郎(あずま・けんたろう)1948年(昭23)7月17日、鹿児島県生まれ。3歳で家族とともに上京。28歳で脱サラして化粧品店をオープン。現在は川崎市高津区で「株式会社ジュネット」代表取締役を務める。趣味のバイクで91年にシルクロードを走破して以降、毎年長期休暇をとって全世界を旅している。昨年は米国を縦断した。家族は妻と2女。全員で家業を頑張っている。 原稿を執筆中の東さん

One Response to “バイクなき遠野紀行”

  1. さんでい |

    東 賢太郎氏は私が18才の時、彼が20才の時に出逢った最も大切な友人です。遠野で大槌町でボランテイアなさったお話を感動して読みました。20才から
    全く変わらずに、正義感の強い愛情深いまま年齢を重ねて生きていらしたのですね。悲惨な時ではありますが、彼と偶然の出会いを持った人たちは、しばしの間
    人間の強さや優しさに触れて幸せだったことだろうと推察致します。現地の方々が1日も早くお元気を取り戻されるよう祈っております。

「陸前高田市広田町大野地区のコミュニティ施設設営事業」は 「平成23年度(復興支援)被災者支援拠点づくり活動補助事業」の 助成金の補助をいただいています。