<まごころ体験記③>
1度だけのボランティアではなく…
栃木県小山市 小島奈緒子
遠野生まれの母を持つ私は、4月30日から「遠野まごころネット」で活動しています。昨日3日までは、ずっと事務局から車で10分ほどの稲荷下の体育館で、全国から届けられた物資を仕分けて、体育館を訪れる被災された方々にお渡しする活動を行っていました。
震災から約2カ月が経過した現在、救援物資が不足し始めています。3日は朝9時の時点で、大勢の方がロビーで順番を待っている状況で、一時は3時間待ちという状態が続きました。ガスコンロ、ラグマット、男女ともに下着のLサイズ、ジャージ類も午前中で在庫がなくなってしまい、肩を落としてお帰りになる姿を多く見受けました。まだまだ物資不足が逼迫している現実を目のあたりにし、とても胸が痛みました。
そして5日目の今日4日は、陸前高田の避難所で被災者の方の食事の準備のお手伝いを行いました。遠野から約40分離れた避難所に近づくにつれ、一定方向になぎ倒された木や、土台だけを残した家屋の無残な姿を見るにつれ、稲荷下とはまったく別の緊張感が、ひしひしと伝わってきました。 私たちボランティアが夕飯の準備のお手伝いをすることで、被災された方々に個人的な時間をとっていただこうという趣旨で活動を開始したのですが…タケノコのアクの取り方を避難所のご婦人に教わることから始まる状態で、心苦しさと申し訳なさで一杯でした。さらに、避難所での調理は給水車から届けられる限られた水を使うため、節水と衛生面の問題のギリギリの中で行うという想像以上に厳しい任務でした。また、陸前高田はサンマなどの腐乱魚類の回収のボランティアを行っている場所でもあるため、現場にまで独特の臭いが漂い、心身ともに過酷を強いられた環境であることを痛感しました。
休憩の際には、被災者が涙をにじませながらお知り合いを亡くされたお話をうかがいました。また「情報がなかなか入らないから支援物資が入っても会場に行ったころには、欲しかったものが、もうないのよ」という切実な声も聞きました。必死で自分自身を支えながら、先の見えない避難生活への不安を何度も訴えられる姿に、ただただうなずくことしかできない自分自身の無力さを思い知りました。 帰り際、調理のお手伝いもままならなかった私に、被災されたお母さんが何度もお礼を言ってくださいました。本当は、未熟な自分を優しく受け入れてくださった避難所の方々に、私の方がお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいでした。
今回はゴールデンウイークを使ってボランティア活動に来ましたが、被災地でのニーズは途切れることはありません。1度だけのボランティアに終わることなく、これからも「遠野まごころネット」の一員として何度も足を運び、活動したいと思っています。
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◆小島奈緒子(こじま・なおこ) 1983年(昭58)9月15日、遠野市生まれ、栃木育ち、立教大3年時の04年10月には新潟中越地震でもボランティアを経験。同大卒業後は都内の弁護士会に勤務している。現在「婚活中です」