<まごころ体験記④>
故郷で知ったボランティアの使命
福岡市 小野寺淳哉
ボランティアに参加する人たちは「少しでも被災地の力になりたい」という思いで来ていると思う。もちろん、私自身もこの例に漏れないが、最大の動機は、故郷・岩手や東北の方々に対しての「後ろめたさ」「申しわけなさ」からだった。
現在社会人の私は、地震が発生した時は北九州市の会社で仕事をしていた。大きな地震であったことはWEBのニュース速報で知ったが、岩手県民、特に三陸地域の方々の津波に対する防災意識の高さはよく知っている。だから「大した被害はないだろう」と、その時点では思っていた。 現実は違った。その日帰宅してテレビをつけた瞬間目に映ったのは、あまりにも悲惨な光景だった。本当に愕然とした。故郷である岩手が、小さいころよく通っていた三陸海岸があまりにもメチャクチャで…。初めは、自分が現実を見て涙が流れているのか、映画でも観て泣いているのかが、よく分からなかった。そして徐々に、故郷である岩手や東北ではこんなに苦しい状況なのに、就職して福岡で生活している私が被害も恐怖も全く受けずに、のうのうと生活している状況に、耐えられなくなってしまった。同じ岩手、同じ東北の血が流れる者として「申しわけない」という思いが込み上げてきた。「少しでも現地の人の辛さや苦しみが共有できれば、実感できれば」という思いだけでボランティアとして現地に行くことを決心した。 会社に直訴して、5週間(4/1~5/8)の長期休暇をもらって出発した。
最初は東京のNGOが主催するボランティア活動に参加し、宮城・石巻でテント生活をしながら、家屋や店舗の泥出し、行政の手の届きにくい地域への炊き出しなどを行った。電気も水道も通ってなかった夜の石巻の街はとても静かで、さん然と輝く夜空はとても美しかった。だが、目を下にやれば目を覆いたくなるような惨状が広がっている。そんな無慈悲で冷酷な現実の中、1週間ほど石油と下水が混じった泥にまみれて活動した。その間風呂には入れなかった(結局、その後も10日間続いたが…)。それでも、被災したの人々と同じような苦しみや悲しみを実感したとは、到底思えなかった。 本来は4月9日に石巻での活動を終えて、いったん東京に戻る日程だった。だが、「このまま石巻から直接、故郷の状況を確認しに行きたい」という、今思えばかなり我がままな決意で、NGOを離れて岩手行きを決めた。石巻で知り合った同じ考えのボランティアの仲間、車を貸してくれる仲間も見つかり、なんとか岩手・陸前高田にたどり着くことができた。
災害からすでに1カ月近くがたっていたが、とにかく陸前高田はひどいものだった。津波で跡形もなくなくなった街は、四角く区切られたテレビ画面ではその悲惨さを伝えきれていなかったのだと思い知った。 宮城では大学のキャンパスの広い敷地を活かし、積極的に県外ボランティアを受け入れていた。しかし、陸前高田では被害を免れた地域に広い敷地は見当たらず、あったと思っても仮設住宅建設予定地だったりした。「テントを張ってでもボランティアする」という私のような人間を受け入れてくれる場所はなかった。結局、10日間で3回もテントの場所を変えながら、活動せざるをえなかった。 陸前高田の復興は石巻に比べはるかに遅れていた。それでも、被災された現地の方々は、とても力強かった。ツイッターで支援物資を自ら集め避難所へ配ったり、津波を受けた公民館を被災者のために銭湯に作り変えて提供する人。「ボランティア活動お疲れさま」と手土産を渡してくれる方までいた。自ら被災されてるにもかかわらず復興への意志と他人への心遣いが強く、逆に私が力をもらっていた。だが、一方で日がたつにつれ、私は個人で陸前高田で活動するには限界があると感じ始めた。
「個人より、団体の一員として三陸海岸を支援することの方が現地にとってもよいのでは」と悩んでいた時に、「遠野まごころネット」の活動を知り、4月19日から参加した。 しかしながら、遠野は地震での大きな被害はほとんどなかったこともあり、蛇口をひねれば水が出た。それどころか、スーパーやコンビニに行けば何でも食べ物が手に入った。そして、私自身はほとんど現地に活動に行かず、事務局でお手伝いする業務を任されてしまった。これでは「被災地の人の苦しみが理解できないまま、そしてこのまま後ろめたさが取り除かれないまま福岡に帰ることになるのかな」と思っていた。
しかしである。遠野に来て5日目の夜、人生で初めて「体育館」という場所に就寝しようとした時だった。石巻で被災された現地のおばちゃんとの話を思い出した。「被災した日の夜から数日間は本当に大変だったよ。避難所の体育館は底冷えするし、配られたのはたった1枚の毛布。しかも隣に座る全く見ず知らずの人と3人で、その1枚に横になって寝たんだよ。寒くて不安で眠れなかった。」という言葉だ。同じ体育館でも、私は暖かい布団の中で寝られている。余震の恐怖におびえながら、親族や知人の安否を心配しながら床につくのはどんなに大変だったろう。自分の今の状態とを対比させた時、ふと本当に、ほんのひとかけらだけ、被災された方の辛さや苦しみが感じられたような気がした。それと同時に「ボランティア活動を通して現地の方からいっぱい『ありがとう』と言って頂けたし、後ろめたい気持ちにならなくてもいいのかな?」とも思えるようになった。
結局、遠野まごころネットでは、最後までほとんど現場に行かず、事務局内でHP作成のお手伝いをしていた。だが、自分1人が現地に行ったとしても現地で支援できることは1人分だけだ。しかし、HPを作成したことで、情報発信をすることで数多くの人たちがここに来てくれるきっかけなったのであれば、私のしてきたことは「被災地にとってずっと有用なことだったのだ」と今では思っている。そして、私にそのような重要な作業をやらせてくださった遠野まごころネットのみなさんに、とても感謝している。
これからボランティアを志す人たちに、最後に1つだけ言っておきたい。被災地に行かずに、現地へ行くボランティアを事務局や地区センターでサポートするボランティアの方々もいる。ボランティア活動には、業務の種類によっての優劣はない。現地に行くだけがボランティア活動のすべてではないということを。 5月5日、この原稿の執筆をもって私の東北でのボランティア活動はいったん幕を閉じる。「泥かきありがとう。復興してまたこのお店を再開させたら来てね。」と言ってくれた石巻の日本料理屋で営むおっちゃんのお店に行ける日が来ることを。復興した街を背景にきれいな桜を見に来られる時が1日でも早く来ることを願って、これからは遠い福岡の空の下から、支援させて頂きたいと思う。 故郷への「後ろめたさ」は、一生消えることはないだろう。だが、2週間の遠野での生活を終えた私は、少しだけ顔を上げて福岡に帰る。
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◆小野寺淳哉(おのでら・じゅんや) 1982年(昭57)7月27日、岩手・盛岡市生まれ、水沢市生まれ。大学卒業後は福岡で会社員。 人生初のボランティア出発時に「できるだけ、荷物を少なくして食糧を多く持っていきたくて」九州から長靴で宮城入り。遠野滞在中は 陸前高田で、引き取り手のなく廃棄処分寸前だった「岡田」とかかれたサイズが29㌢の中古のスニーカーを譲り受け、愛用していた。