郡(こおり)美矢さん(41)は、生まれつき耳が聴こえない。兵庫県但馬市にある耳の不自由な方々の通う小さなキリスト教会で、手話で聖書の言葉を伝える「ろう牧師」を務めている。親友の米国人宣教師ナンシー・ジョルダンさん(62)と、彼女の夫エドさん(64)の車で、遠野にまでやってきた。忙しい仕事をやりくりし、ゴールデンウイークに2日間だけの日程でボランティアに志願。しかし、4日の午前4時に出発し、夕方6時に仙台までたどり着いたところで、3人は悪天候と疲労でギブアップ。やむなく知人宅に宿泊し、再び早朝から遠野を目指したが、まごころネットに着いたのは午前10時。すでに、沿岸の被災地へ行くすべてのバスは出た後だった。被災地まで40~50㌔離れた遠野からの毎朝の無料送迎バスを逃せば、その日は現地での活動はできない。「まごころのシステムをよく知らなかったんで、3人で『え~!!』という感じでした。本当は、こちらでも被災された障がい者のための仕事をしたかったんですけど、残り1日だけじゃそんなことも言ってられませんからね。何でもやろうと、今日の仕事にかけていました」。ジョルダンさんとまごころの手話通訳の助けを借りながらも、自身も大きく口を動かして笑顔で話した。
岩手での最初で最後のボランティア活動は、大槻町の被災家屋の片付けと泥かきだった。在日28年のナンシーさんと変わりなくスコップを手に、ほかのボランティアの方々とまったく同じ作業を一生懸命にこなした。「楽しかったですよ。私、こう見えても力仕事が得意なんです。それに、普段から健常者と一緒にバレーボールやソフトボールで鍛えていますからね。明日も、あさってもやりたかったです」とさわやかな笑顔で胸を張る。本当に幸せそうだ。耳が不自由なことで、きっとご苦労されたことも多いだろうに…。どうして、そんなに目を輝かせてボランティアができるのだろう。「だって、私。今まで自分が不幸だと思ったこと、1度もないですから」と真顔に戻って目を見開いた。 故郷の徳島の高校を卒業し、東京に出て歯科技工士の資格を取った。22歳の時にカナダに渡り、3年間働いた、その後に一念発起して米国やオーストラリアに留学し、キリスト教や日本とは違う現地の手話の勉強に励んだ。4年前に帰国し、西日本でただ1人の「ろう牧師」として、そしてろう学校の先生として、耳が不自由な方々を支えている。3・11の大震災の瞬間は、自宅にいた。地震を感じた瞬間にテレビの前に設置してある赤色灯が回りだ出し、異常事態の発生を知った。30分後、再びパトライトが回転。驚いて見たニュース画面が東北への大津波の襲来を映し出していた。「今回は幸運にも、私は即時に情報を得ることができました。でも、耳や目が不自由な人たちには、災害時には必要な情報が入りにくいのです。命が助かっても、困ったている人は、今もたくさんいると思います」。
95年の阪神淡路大震災時には、カナダにいて「何もできなかった」ことをずっと悔やんでいた。今回はたとえ短期間でも、どうしても被災地に来たかった。「幸せな私たちは、苦しんでいる人たちを助けなければなりません」。陸前高田の名勝「高田松原」の7万本もの松林が大津波で壊滅した中、奇跡的に1本だけ残った「希望の一本松」の写真に胸を打たれた。「これが『負けないぞ!岩手』。『なじょにがすっぺ(何とかしようぜ)』」ですね。 これからもずっと、神の御心に従い、悩める人々の魂の叫びを聞いて生きてゆく。