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5・13 波に消えた村を訪ねて…ニーズ調査

2011年5月13日  18時16分

3・11の悲劇から2カ月以上が経過しました。多くの被災地では瓦礫の撤去が進み、復興への槌音が聞こえ始めました。しかし、広げた人の手のひらのように入り組んだ入り江が至るところにある三陸海岸には、いまだに大津波が来襲した直後の無残な姿のまま、ほとんど放置されている浜辺の集落が数多く存在しています。海岸線の小さな半島沿いにも、自衛隊や工事関係の車両以外は行き来のないさびれた県道が通っています。震災で荒れ果て、メディアにも取り上げれない集落にも「支援を必要とする人たちはきっといる」。遠野まごころネットでは、時にはそんな「忘れられかけた村」を訪ねて、被災地の住民へのニーズ調査を行っています。

完全に砂に埋もれた根浜の街角

この日、われわれが向かったのは、釜石市と大槌町の間にある箱崎半島。地震前は白砂青松の美しい海水浴場で有名だったという釜石市鵜住居(うのすまい)町の根浜海岸、そしてさらに奥に入った同市箱崎町を目指した。国道45号線を外れ、地震でボロボロ、穴だらけの道路を通って根浜を訪ねた。町はずれの大きな旅館に「まだ避難されている方々がいる」という情報が寄せられていたからだ。ところが、カーナビの画面には数々の建物が写っているのに、現実は…何もない。浜辺沿いの大通りの両側は砂で埋まっている。大津波ですべてがさらわれた上に、押し寄せた海岸の砂が周囲を埋め尽くしている。もちろん人気はまったくない。遠くの山ぎわの住宅が数軒、瓦礫の中に横倒しになっているのを眺めながら前進したが、やがてコンクリートの道は大きくひび割れ、巨大な水たまりが出現。やむなく来た道を引き返し、奥の山道を通って先に進むと、眼下に海岸が広がった。皮肉にも海水浴場だったはずの波打ち際には、もうどこにも砂浜がなかった。

砂浜がなくなってしまった根浜海水浴場

最初の目的地だった海沿いの旅館は、1週間ほど前に避難所指定を解除されていた。玄関には、この周辺で亡くなった10人以上の人々の名前が張り出されている。そこに住んでいた10数人の周辺住民が故郷を離れ、盛岡や釜石などの都市部に移っていったということも、書き加えられていた。やむなく片付け作業に追われる業者のみなさんに、持参したトイレットペーパーなどの物資を差し上げて先を急いだ。トンネルを抜けて、箱崎町に入った。ここもひどい。漁港から先、約2㌔四方が瓦礫の山。その真ん中の広場? に自衛隊の車両が大小約20台とまっている。ここはまだ、人海戦術で行方不明者の捜索中なのだった。一番奥の高台になんとか立っている大きな民家を見つけた。家主の川崎善一さん(65)が、忙しそうに家の周囲の瓦礫を整理していた。

海抜17㍍の高台に建つ川崎さん宅。1階の屋根に自動販売機が乗っている

特産のワカメの加工工場を経営し、船を2隻、自動車は3台も持っていた川崎さんは、あの津波ですべてを失った。自宅だけはなんとか原型をとどめているが、崩れた家にのしかかられ半ば崩壊し、もう人は住める状態ではない。「このうちは海抜17㍍にあんだよ。昭和8年(1933)の大津波で(浜辺にあった)家が流されて、わしのじいさんがこの丘に建てたんだ。見晴らしもよくてさ、刺身もウニもホタテもアワビも、毎日新鮮なもんばっかし食べててさ。優雅な生活していたのよ。あの日も津波は来るとわかってたけど『ぜってえここまで来ねえ』と思って沖さ見てたのさ。そうしたら、想像を絶する高さの黒い壁が、渦を巻いてやってきたのさ。男のわしが、足が震えて、立ってられないほど怖かった。必死でばあさんの手を引いて、後ろの山に登ったさ。振り向いたら箱崎は全部海になってた。たった30分ですべての財産なくなっちまった」。約300軒あった民家はほぼ壊滅。約80人の住民がなくなり、今も30人の行方が知れないという。同居していた川崎さんの息子夫婦は、2カ月の避難所生活を終え、数日前に孫2人とともに釜石市街に完成した仮設住宅に移っていった。「だって、小学校がなくなっちゃったんだもの。もう、ここで生活するのは無理だなあ」。川崎さんは寂しそうにつぶやいた。

津波の高さを示す川崎さん

残念ながら、危険を伴う箇所での瓦礫の撤去は、遠野まごころネットの個人ボランティアの任務には含まれない。川崎さんがすでに対応を依頼済みだという地元ボランティアセンターの動きも見ながら、週明けに電話連絡することを約束することしかできなかった。川崎さんは家の片づけのため、最近、中古の軽トラックを買った。「遠野から来たの? この車、遠野まで行って買ってきたんだよ。おれたち海岸の漁師にとって、遠野は山菜摘みや山登りにいく遊びの場所だったのよ。まさか、わざわざ車買いに行ったり、ボランティアさんが助けに来てくれるような日が来るなんて、夢にも思わなかったなあ」。我々は車に積んであったガソリン20㍑のを川崎さんに差し上げてから、重い足取りで遠野に戻った。

5 Responses to “5・13 波に消えた村を訪ねて…ニーズ調査”

  1. 山脇 利夫 |

    6月16日まで箱崎水路隊にて瓦礫撤去を行いました。
    自分の目で惨状を見たときの絶望的な思い、その場に居られた方々の生活用具が
    瓦礫となっているさまは言葉で表せない思いがしました。
    作業中通られたおばあさんが『この家が私の家で(二階建て家屋で上は無事に見えるが下部は柱があるだけ)、妹の家があそこにあったの(基礎のみ)自分は孫娘と二人になりました』そう話された時、自分はなんと言って良いかわからず頭を下げるしかできませんでした。
    現地はまだまだ復興とは程遠い状況です。
    10月再度参加したいと思います。
    これを読まれた方々に、一人でも多くの方の参加をお願いいたします。

  2. T_H |

    GW中に参加した、上郷地区での集合写真がトップページにあり、それを見るたび思い出します。
    私はGW中にボランティアに参加し、陸前高田の小学校の清掃に参加したのですが
    (残念ながら?サンマには参加できませんでしたが・・・)、作業時はそのやっていることが海中の目薬程度というか、広大な瓦礫を目の前にしてどうしようもない無力感のようなものにも苛まれました。
    しかし最終日の作業終了時に、おそらく依頼者か地元の方が「この小学校は地元の地域のシンボルのようなもので復旧することで地元の人にも希望ができる」といった事をおっしゃってくれたことで、やったことに意味があったのだなと、本当に救われました。
    それから遠野でのボランティアの後、実家(岩手県北地域)に帰る途中、宮古市の知り合いを訪ねて行ったのですが、宮古市の方にも来て欲しいいったことを言っていました。
    遠野からでは難しいと思いますが、サテライトのようなものは考えてはいないのでしょうか。

    私自身これからも、東北の為に出来る事を考えてやって行きたいと思います。
    手始めに、会社の社内報に被災地の現状やボランティアの内容等と載せて貰い、知って貰おうと思っています。
    もちろんまたボランティアにも行くつもりです。
    裏方の方も含め本当に大変だと思いますが、なんとかがんばっていきましょう。

  3. coba |

    普通の生活をしてTV、新聞では知ることのない被災地情報にショック。まだまだあるんですね。先が。さらに過疎が進行するし•••
    足を運ぶボランティアの皆さんご苦労さまです。

    MMMさんの指摘する「専門分野」は徐々に必要になると思います。ボランティアを支援する専門分野も。『冬のボランティア活動』をするためには住居を確保する部門が必要になる? 冬の寒さに個人の自力は不可能に近い。そんな部門もボランティアの中で必要になる? ある意味でプロの世界?

  4. そうです。
    私が、ボランティアに言ったところでさえ、町が全て崩壊しているのに、幹線道路すら走っていない海岸沿い、半島沿いの集落など、推して知るべしです。
    こういうレポートを見るとやるせないですね。もう少し近くに居れば、週末に、さっと行ける距離であれば、と思ってしまいます。

  5. Palnt Engineer in MMM |

    このような地域で頑張っている人たちにもっと光が当たるような報道をマスコミ関係の方にお願いしたいです。
    それからボランティア人員の構成についても今後は専門分野にたけた人達のグループ構成なども検討してはどうかと考えます。 専門技能を持っている人員を極力有効に活躍できるように。中々難しいかと思いますが、みなさんの知恵を出し合って解決策を見出していぐべぇ! ボランティアの登録メンバーの有資格のデータベース化も役に立つのでは? または募集案内の際に希望の有資格者を募るとか。
    提案するだけですいません。

「陸前高田市広田町大野地区のコミュニティ施設設営事業」は 「平成23年度(復興支援)被災者支援拠点づくり活動補助事業」の 助成金の補助をいただいています。