3月11日、被災地への鎮魂の想いを込めた「手つなぎプロジェクト」が国内外の各地で行われました。岩手県宮古市の田老地区では、地元のNPO法人「立ち上がるぞ!宮古市田老」が追悼イベントを企画。遠野まごころネットのボランティアスタッフも現地を訪れ、午後2時46分に防潮提の上で手をつなぎ、地元の方々とともに黙とうを捧げました。
「立ち上がるぞ!宮古市田老」(大棒秀一代表)は昨年7月に結成され、田老地区の住民自らの手で被災者の自立復興に向けた町づくりの提案や支援活動を展開している団体です。今回の追悼イベントのなかでは、「たろう観光ホテル」の6階で大津波が防潮堤を超えて迫る瞬間を撮影したビデオの上映会も行われました。防潮堤から約200メートルに位置するこのホテルには、地上6階建ての3階部分まで津波が押し寄せたそうです。到達間際まで防潮堤を歩いていた人や上半身まで波に浸かった人など、生々しい映像を目の当たりにし、実際にこの場所で起きた出来事の重みを参加者みんながそれぞれの思いでかみしめました。
田老地区は「津波太郎」という異名を持つほど、過去に幾度も津波の甚大な被害を受けた地域です。明治三陸大津波(1896年)では1859人、昭和大津波(1933年)は911人の尊い命が奪われました。この教訓を踏まえ、田老地区には1834年から約40年の歳月を費やして総延長2433メートル、海面からの高さ10メートルの巨大な防潮堤が築かれました。X(エックス)の形で町を二重に囲むこの防潮堤は「田老万里の長城」と呼ばれ、かつては土木技術を駆使した防災対策の事例として多くの人々が視察に訪れており、地元の方々にとっては海に近いこの場所で安心して暮らすための命の砦でもありました。
しかし、東日本大震災によって押し寄せた大津波でこの巨大堤防は崩壊 。田老地区でも約200人の犠牲者(内訳:田老在住の死亡者134人/行方不明者50人/田老以外に在住の死亡者16人)が出たのだそうです。この防潮堤を見て感じたのは、「やはり人間は自然に逆らえない」ということです。津波はいつか必ず来る―--田老地区に生まれ昭和三陸大津波を経験した田畑ヨシさんは手作りの紙芝居「つなみ」のなかでも警鐘を鳴らし続けていました。
午後2時46分、防災無線のアナウンスとともに防潮堤の上で参加者全員が手をつなぎ、海のほうに向かって黙とうを捧げました。続いて常運寺梅花講のご詠歌が始まるとともに、町のほうに向きを変えて再び黙とうしました。私の右隣で手をつないでくれたのは小さな男の子でした。私の手は冷たくかじかんでいたのに、男の子の手はとても温かくて、つないだ指先からトクットクッと小さな鼓動が伝わりました。
折しもこの日の天気は雪。冷たい風や雪が吹きつけるなかで、同じような天気だった1年前の3月11日は海のなかも陸の上もどれほど寒かったことでしょう。目を閉じて犠牲者の方々のご冥福を祈りながら胸がしめつけられるような思いや、絶対にこの震災を忘れないという思いに駆られたのは、同じ時刻に世界中で手をつないだみなさんも同じだったのではないかと思います。
手つなぎを終えてからまごころネットのボランティアたちは、それぞれの思いを胸に防潮堤の上を歩きました。「日本のマスコミでは(たろう観光ホテルで見たような)生々しい映像が出ていなかったが、ありのままを伝えていくことも大事、忘れないことも大事だと思った」、「大棒さんのお話のなかでここにはまださまよっている魂があり、見える人には見えるという言葉に衝撃を受けた。どうか安らかに眠ってほしい」、「被害の状況を目の当たりにしてショックだったが、やはり現地に来たことには大きな意味があった」などボランティアのみなさんからは様々な声が聞かれました。
震災からひとつの節目を迎えた3月11日。田老地区に限らず、被災地には多くの報道陣がこぞって取材に訪れましたが、3.11は終わりではなく復興に向けた新たなフェーズの始まりに過ぎないのです。はたしてマスコミが今後どれだけ被災地のことに関心を持ち続けるのか、3.11が過ぎたら再び震災の風化が進むのではないか、被災された方々は忘れられてしまうことを最も懸念されています。世界中のみんなで手をつなぎ、共有した想いを私たちは深く心に刻んで、これからも被災された方々にそっと寄り添い続けていきましょう。
(取材・文:高崎美智子)