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復興支援検証会議、第1部:NPO・ボランティアの役割とその検証(1)

2012年4月06日  23時17分

復興支援検証会議
~いま改めて、「支援」の原点を見つめ直す~

第1部:NPO・ボランティアの役割とその検証

■ファシリテーター:   松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
               坂田    宏氏(遠野まごころネット)
               多田 一彦氏(遠野まごころネット)
               嵯峨 生馬氏(サービスグラント)
             吉田 信雄氏(かながわ県民活動サポートセンター)

■パネリスト:      栗田 暢之氏(レスキューストックヤード)
             鳥羽    茂氏(静岡県ボランティア協会)
             頼政 良太氏(被災地NGO協働センター)
             森本 智喜氏(全社協支援P)

―――ファシリテーター:松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)

本日の復興支援検証会議ではこの1年間を振り返りながら、自由にざっくばらんに議論を進めたいと思う。パネリストだけではなく、会場のみなさんも随時、手を挙げて議論に参加してほしい。第1部では「NPO・ボランティアの役割とその検証」として、5つの点を織り交ぜながらパネリストのみなさんにそれぞれお話を伺いたい。

  • 機能したもの
  • 機能しなかったもの
  • 機能できなかったもの
  • ちゃんとできたこと
  • ちゃんとできなかったこと

 

―――栗田暢之氏(レスキューストックヤード)
「検証」という言葉を使っていいかどうか。まだ被災地は現在進行形なので「検証どころではない」と言われるのではないかと思っていたが、多田さんから今回の復興検証会議のお話があり、被災地から検証したいと考えることに対して敬意を表するとともに、一歩踏み込まれたと感じた。阪神大震災から17年。これまでの学びが本当に生かされたかと考えた場合、全然機能しなかった。初動についてはすべてを反省しなければならない。どこから入ればよいのか、どこに行けばよいのか、どこで誰が何の支援をしているのかもよくわからない。「震災関連死」について国もようやく検証を始めたが、劣悪な環境のなかで命を失った方は1000人を超えている。もっとボランティアが入っていれば、防げる死もあったのではないか。

阪神大震災のボランティア活動とよく比較される。阪神の時は歩いて現地に入ることができたが、今回はそれができないなかでどうすればよかったのか。現地で食糧やガソリンが入手できない問題もあり、多くのボランティアが入れなかった。我々が初めて岩手入りした時の気温はマイナス7度。キャンプや野営も素人には難しい状況だった。「顎足枕」(注:あごは食事、あしは移動手段、まくらは宿泊)という言葉があるが、今回はこれらの問題が大きく立ちはだかった。それでも頑張って現地に入るメンバーのなかで、松永さんのジャパンプラットフォームは国際協力での豊富な経験や、諸外国での劣悪な環境で支援活動をしてきたノウハウが生きたのではないか。我々は国際NGOから学ぶべきことがたくさんあると感じている。

その後、徐々に被災地の状況が明らかとなり、各地で災害ボランティアセンター(以下:ボラセンと略)が立ち上がったが、これは今回の災害で機能したことのひとつだろう。阪神の時にはボラセンという概念がなかった。各市町村に当たり前のようにボラセンができるような風潮が生まれたのは2004年以降の話だ。ここ10年でこのような機能が必要という認識が定着した。全社協(全国社会福祉協議会、以下:全社協と略)の調べでは92~93万人が現場に入った。この仕組みがなければボランティアはどこに行けばよいのかわからなかったかもしれない。こうした機能があったことは大きな成果だ。災害ボランティアが被災地には絶対にいるということが社会で当たり前となったことが機能した部分だろう。ただし、その内容については検証しなければならない点が多い。地元の社協(社会福祉協議会、以下:社協と略)がボラセンを立ち上げるが、その管理については自分たちの許容範囲だけで物事が進んでいくとそれ以上の対応ができなくなってしまう。もう少し殻を破って被災者のもとに早くボランティアを届ける、あるいは被災者に何が必要かを取り上げていろいろな人が関われば良かったのだが、そういうことがなかなかできないのが実態だった。

―――多田 一彦氏(遠野まごころネット)
アクションを起こす時にどこにどうやって行くか、その過程を聞きたい。

―――栗田暢之氏(レスキューストックヤード)
状況を確認しなければ行先は決められない。我々の場合は翌日から先遣隊を派遣した。山形から入れるところまで行って沿岸部の各市町村の状況を確認した。たまたま震災前からご縁があり、宮城県沖地震に備えて宮城県の各市町村で私は講演会をしていた。七ヶ浜町の社協さんが私どもの会員になっていたので、その時の名刺を大量にコピーし、先遣隊に託して七ヶ浜町に入ってもらった。もうひとつ、報道が手薄なところに支援がまわらないのは過去の事例から明らかだった。阪神の時は震災から2週間後に阪神大震災地元支援連絡協議会というネットワーク組織ができた。その教訓から我々はもっと人の束を早く作り、誰がどこに入るのか、支援のない地域を作らないためにも東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)を作った。3月12日に東京に入って関係者と協議を進めた。東京からボランティアバスを送り出すのが一番早いので、まずは東京で支援の輪を作りたいと考えた。

―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
震災初期の段階では被災地にむやみに行くと迷惑になるという議論が多かった。それについてはどう思うか。

―――栗田暢之氏(レスキューストックヤード)
誰にとって迷惑なのかを考えなければならない。本当に寒いなかでボランティアが一枚ずつ余分に毛布を持っていくのは迷惑になるのか。一方で、得体の知れない者がたくさん来ると迷惑だというボラセンの度量のなさというか、自分たちだけの範疇で解決できないところに多くの人が入ってきたり、被災地が混乱するのが怖いから迷惑なのか。迷惑には2種類ある。困った人たちのもとに駆けつけて適切な人道支援を行うことは迷惑ではない。ただし、他者にそのことを理解されるまでの時間をなるべく短くすることはボランティアの務めだ。いくら困っているとはいえ、東北の人たちが外から来た人をいきなり受け入れることはできないかもしれない。そんなことを言っている場合ではないとボランティアの存在を理解してもらうためのフォローが必要だ。一方で、迷惑とか被災地が混乱すると言う主体が社協やボラセンだったりするのは違う。自分たちの目の届く範囲だけでそう言っているだけではないのか。

―――多田 一彦氏(遠野まごころネット)
迷惑だと言えるのは声を出せる人で、声を出せない人もたくさんいた。なぜ声を出せる人は迷惑だといえるのか。その根拠は自分のなかにある。そこが違う。例えばボラセンができたことはとても評価されることだが、ボラセンの運営については、運営する人の度量によって違う。なわばりや垣根を作ってしまうと我々は助けたくても助けられない。邪魔なものを取り除くところから活動を始めなければならない。このジレンマはものすごかった。絶対にそのようなことはなくす。垣根を作らないで効率良く活動してもらうためのコーディネートをボラセンがやるのだと私は思う。我々としては来てもらうだけでもありがたい。迷惑なものはひとつもない。話せばわかると思う。

―――栗田暢之氏(レスキューストックヤード)
東日本大震災の現状で今までと違う点は、ボラセンを主体的にやっていく人たちにも死者が出ていること。今までの支援は受け入れる側が頑張らないとボランティアを上手に被災地に届けられない仕組みをマニュアル化して作ってしまっていた。社協のなかでボラセンの職員は1~2人程度しかいない。そこにいっぺんに大量の人が来たら戸惑う。地元がどのようなネットワーク体制にあり、外部支援者がその状況を理解した上できちんとケアをする目的で現地に入ったかどうか。社協やボラセンの批判ではなく、そういう機能が充実していなかったことを日本社会の今後の学びとするべき。災害が起きた時にはボランティアが必要であり、その支援を上手に受けるために地元のネットワークをいかに強化するか。地元で難しいならば、そのことを理解して応援できる外部支援者にどうやって入ってもらうかを仕組みとして考えていかなければならない。

―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
社協の職員自らも被災しているという過酷な状況のなかで本当にできるか否かは難しい問題。ボラセンが機能しなかった背景にそういう事実があったことも我々はしっかりと受け止める必要がある。

―――山口幸夫氏(日本社会事業大学)
日本では阪神の反省から地域の社協がボラセンを立てるという仕組みを簡単に想定していたが、今回のように中小の市町村の社協が500キロにわたって被害を受けてしまうとバックアップにすら入れない。災害は戦争みたいなものだ。正規軍が動けなければ地域や外部の“特別部隊”が支援に入る。その時に応じた仕組みである程度動ける人たちが初期の段階では頑張った。しかし、時間が経って公的なところが出てくると勢力争いや、地域のNGOを置かないで大手のNGOが仕切るようなことなどが起こる。

―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
支援を受け入れるにあたって、七ヶ浜の遠藤さんは実際に地元でどのように動いたのか?

―――遠藤久和氏(浜を元気に!七ヶ浜町復興支援ボランティアセンター)
マニュアルはあったが、役に立たなかった。やはり場所によって違う。レスキューストックヤードさんが来てくれたのが一番助かった。ボラセンを支援するという形を取ってくれたので、センターの人もボラセンの運営をやりながら学んだ。七ヶ浜はマスコミに取り上げられることもなく、通信機器もダメになっていて連絡すら取れない場所だった。やっとボランティアが来てくれたことが嬉しかったので、大切にしたかった。ボランティアが活動しやすいことを念頭に置き、家族のように接することを心がけた。小さい町だが約45000人のボランティアが来ており、リピーターがものすごく多い。被災地側も来て頂いた人たちに精一杯の感謝の気持ちを言葉や態度で伝えることで、お互いにとても良い関係ができている。

―――森本智喜氏(全社協支援P)
支援Pとは災害ボランティア活動支援プロジェクト会議のこと。大規模災害時には「人・物・お金・情報」の4つが被災地支援活動で早急かつ、確実に必要なので中央共同募金会と全国社会福祉協議会、経団連、NPOの4者のネットワーク組織として2007年にできた。陸前高田の場合、社協自体が被災して活動拠点や機材、データ、何もかもが無くなっていた。職員も管理職を中心に16人中7人が亡くなられた。

私は3月18日に陸前高田に入ったが災害ボラセンを立ち上げられるような状況ではなく、現地に着いて3日間待った。4日目の朝、地元職員の男性から「多くの人達の手を借りて、高田の人たちを社協として助けたい。だから手を貸して欲しい」と言われたのがきっかけで、紙1枚とボールペン1本でボラセンをスタートした。陸前高田は支援力の受け入れに消極的と言われていたが、どんどん外の人にも入ってきてもらった。陸前高田まで瓦礫の海や山をかき分けて来てくれたボランティアの人たちはお客様ではなくて仲間だ。(被害の)規模が大きく、(復興までの)期間も長いので、様々な人とのつながりが必要。お互いに許しあうことも1つのテーマとして受け入れをした。冬場はボランティアの数が1日あたり30人まで減ったが、再び600人程度に増えてきた。

外部支援者はいずれ活動から手を引くが、地元の社協はずっとそこにとどまる。災害ボランティアといえば瓦礫運びや泥出しのイメージが強いが、なぜ社協がボラセンをやるのかといえば、社協の会員である住民が被災しているからだ。そもそも社協は地域福祉の推進という役割を担う存在。被災したことで住民が安心して暮らせる町づくりがストップしているため、ボランティアの人たちの手を借りて、住民が日常に戻っていくお手伝いをしている。だから作業支援センターではなく、生活支援センターだと言い続けてきた。その結果、今も陸前高田で災害ボラセンの看板を掲げている。災害ボラセンの看板は外部に対してはランドマークで、まだ必要な支援があるというメッセージ。内部(住民)にはいろいろな仲間とつながって支援を続ける、見守っているというメッセージになる。ずっとそこに居続けることが大事だ。続けるからこそいろいろな人がつながり、必要な支援や知恵をいただくことが可能になる。

―――坂田 宏氏(遠野まごころネット)
ボランティアの受け皿として七ヶ浜などはうまくいった事例だが、うまく機能した地域とそうでない地域を分ける要素は何か?

―――森本智喜氏(全社協支援P)
機能とタイミングということもある。陸前高田は昭和の大合併以前の旧市町村ごとに住民の考え方や気持ちが違っていた。わりと早く手を挙げるところもあれば、自分たちのことは自分たちでやるという気概が強いところもある。隣の地区にボランティアが入ったからうちも受け入れようという地区があれば、うちは関係ないからと手を挙げない地区もあった。やはり長くかかわる、長くそこで待つ、ということが重要だった。

~つづく~

 (まとめ・文:高崎美智子)


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