復興支援検証会議
~いま改めて、「支援」の原点を見つめ直す~
第1部:NPO・ボランティアの役割とその検証(2)
■ファシリテーター: 松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
坂田 宏氏(遠野まごころネット)
多田 一彦氏(遠野まごころネット)
嵯峨 生馬氏(サービスグラント)
吉田 信雄氏(かながわ県民活動サポートセンター)
■パネリスト: 栗田 暢之氏(レスキューストックヤード)
鳥羽 茂氏(静岡県ボランティア協会)
頼政 良太氏(被災地NGO協働センター)
森本 智喜氏(全社協支援P)
~(1)から続く~
―――坂田 宏氏(遠野まごころネット)
コミュニティによる意識の問題や、現地にリーダーがいるかいないかも大きいのではないか?このような人が出てきて現地で社協を引っ張ったとか、うまくいった事例があれば聞きたい。
―――遠藤久和氏(浜を元気に!七ヶ浜町復興支援ボランティアセンター)
ニーズはたくさんあるが、待つことはしなかった。こちらから出向いて説明し、「やりましょう」と説得した。やることを理解してもらった上で避難所に戻り、そのことを話すとみんなに波及する。通信手段がないので、待っていたらいつになるかわからない。せっかくボランティアがきてもマッチングができないのは申し訳ない。そのぐらいやらなければ、初期はボランティアを無駄にしてしまう。ボランティアのみなさんには必ず作業内容と、その活動によって助かる点を説明した。達成感を持って帰ったボランティアの人たちはまた来てくれる。だから達成感をとても意識した。
―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
ボラセンはしっかりとニーズを取りに行かなかったのではないかという批判もあるが?
―――森本智喜氏(全社協支援P)
ニーズの内容は時とともに変化する。初期は物資の運搬や配布のニーズが多く、ボラセンでよくイメージされるがれき撤去のような力仕事は期待するほど出てこなかった。住民がボランティアのことをよくわからないので、活動ニーズに対してもなかなか手が挙がらない。あとで何か請求されるのではないかとか、近所が頼んでないのに自分だけ頼むわけにはいかないとか・・・。陸前高田の場合は、自治会長など地域のキーマンを通したデモンストレーション的なやり方を重視した。どのような人たちが東京や大阪などから来ていて、どのような活動や生活をしているかを実際に見て理解してもらった。
―――栗田暢之氏(レスキューストックヤード)
うまくいったと言われる七ヶ浜ですら、最初はボランティアを町内で募集していた。町内住民は2万人しかいないのに驚いた。マニュアル上に書いてあるセンター長などの制度の弊害が出ているのではないか。意識が高い人がしっかりとそこに関わり、腹を据えてやろうと集まって取り組むのが災害救援の原点だと思う。災害時には社協に顕著なニーズがあがってくることを感覚的につかんで頑張ろうとするタイプと、自分たちの領域を守ることに徹するタイプがある。陸前高田の場合はセンター長も亡くなられていたので、あの状況を誰も責めることはできない。ただ、支援Pのなかで今も議論しているのは、街の復興や様々な社会的なニーズに対して、泥かきに象徴されるようなボランティアで終わってよかったのかどうかということ。あるいはボラセンと社協、どちらの支援なのか?支援Pとしても反省しなければならないことがある。ただし、(地域によって事情は違うので)いちがいには言えない。石巻は最初に「助けて」と大きく声を上げたことで多くの支援が集まったが、逆に船頭が多くなりすぎたという問題もある。石巻のように広域合併が進んだ自治体は住民の意思統一が難しい。課題のない地域などない。
―――会場からの声(岩手県北観光バス関連会社の関係者)
最初に遠野まごころネットに参加して学んだことは、ボランティアは自己完結ということ。5月頃はまだ混沌としていたが、ボランティアを受け入れて活動に結びつけるために、一人一人が自己責任で判断し、行動することを徹底していた。とにかくいろいろやってみようと。当然、様々なトラブルもあったようだが、混沌としていた時期はどの地域でもあったこと。多少混乱しても外部の支援をできるだけ受け入れて、多くのボランティアが来てくれることが重要だと考えた組織は機能したが、逆に秩序立てた管理を優先した組織は自分たちのキャパシティ以上のことをやろうとしなかった。岩手県沿岸部を見ても、それぞれセンター長さんの方針などによってやれることに差が出ていた。公平性や平等性にこだわらないかどうかも方針の差としては大きいと思う。ただし、このフェーズはいつまでも続かず、半年以上経つと岩手県は良い意味でも悪い意味でも行政が強い地域なので、ある程度統制が取れてきたようだ。
―――多田 一彦氏(遠野まごころネット)
まごころネットとしては陸前高田の動き出しが遅いというジレンマがあった。SOSがいろいろ来ているのに動けない。各地から派遣された社協の人が頑張っているが、昨日来た人が「それは我々に断ってくれ、ちょっと待ってくれ、それはやらないでくれ」と言う。(彼らは)はたして現場を見たのか?実際は見ていない。誰がSOSを出していて、俺たちは何をするのか?というところで相当なウェイティングロスがあった。俺たちの目的は効率良く助けること、効率よく(現場に)行くことなのに、形にとらわれすぎて柵を作り、同じサイクルでがらりと担当者が替わっていく。そして来た人たちがイニシアティブ争いをしてしまう。それを統括していたわけだが、そこのところの苦労があった。今度はこうしたほうがいいのではないかという部分を本音で(話したい)。
―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
社協のサポートシステムは、アメフトのようにどんどん人が入れ替わる。結局、ボトムラインは人。細かい点を指摘する人はどこにでもいるが、システムがくるくる変わり、コントロールが難しい。人による(認識の)誤差が出てしまうことが活動に結び付かなかったのではないか。
―――森本智喜氏(全社協支援P)
支援Pとしては全体の運営のスーパーバイザーとしての役割を担っている。上下関係を作らないことだけは心がけた。ブロック派遣という仕組みがあり、他県の社協の職員がコーディネーターの応援としてやってくる。5日や1週間ぐらいでどんどん人が入れ替わる。最初の頃に来る応援組は被災地で何らかの活動経験があり、災害ボラセンのコーディネート業務の経験を持つ人が多かった。やり方や考え方、スパンなど、過去の水害や地震などにおける自分の活動の経験値を陸前高田の状況にあてはめて理解しようとしたところもあったのではないかと思う。来てくれた人たちには、5日間で何か活躍したいではなく、とにかくつないで欲しいと伝えた。最初の頃、多田さんに「陸前高田のほうで望むことをやるので、どうしたらいいか言って欲しい」と言われた。いろいろな団体がやってきて「今、何が一番必要か」と聞かれるが、必要なものはたくさんある。聞く側としては、なるべく簡潔で具体的な答えを求めてくるが一言では答えられないし、今日と明日でも違う。(多田さんには)しばらくここにいて現場を見てもらい、必要だと思ったものを遠野や県外に向けて情報発信して欲しいと頼んだ。いくら地元にいるとはいえ、自分たちには情報を整理して毎日発信をする余裕はなかった。その部分をお手伝いして欲しいと多田さんにお願いした。待つのはいたずらに待つのではない。そばにいて同じ視点で(現場を)見てもらい、後方支援として具体的な情報を発信してくれる役割を求めていた。
―――多田 一彦氏(遠野まごころネット)
「何かやることはないか」と聞く時は、我々はすでにやることを把握している。しかし、ストップと言われてばかりだった。地元をたてるというのが我々の考え方であり、掴んでいるやるべきこと、その部分を言わせたかった。きちんと地元をたてているのに、邪魔が入る。ここのところ、今度はどうしようか?
―――森本智喜氏(全社協支援P)
今度・・・どうしましょう、栗田さん?
―――栗田暢之氏(レスキューストックヤード)
彼はこうしてずっと人に寄り添っていくことを大事にしている。だから、彼と別の人が入らないとその部分は断ち切れない。森本さんのように丁寧に寄り添うタイプと、はたしてそれでいいのかと目の前で困っている被災者のためにもっと広い心で頑張ろうというタイプとがある。後者のタイプが七ヶ浜の遠藤さんで、ピンチをチャンスに変えようといち早く考えた事例だろう。ピンチをチャンスにとは被災地でよく使われる言葉だが、そこに気づくかどうか、いつ気づくかは非常に大きな課題だ。
―――山口幸夫氏(日本社会事業大学)
社協にそれを求めるのは酷で、社協は基本的に中間組織。社会福祉の面で公平性の維持を考慮しなければならない立場だ。その手薄な部分を補うのがNPOだろう。被災しても社協は社協本来の業務のことも考えなければならない立場にあるので、社協だけが(ボランティアの)受け入れの窓口になると「そこから先はしないでください」ということになってしまう。今後のボラセンの窓口は複数形にしたほうがよい。開発途上国での活動の場合、支援要請ベースで現地に入るが、その後は自分たちで地域の市民団体やNGOと連携して地元のニーズを組み立てている。
―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
機能しなかったものについては、いかにそれを補完するシステムをトータルで構築していくか。これはまたのちほど議論したい。
―――鳥羽茂氏(静岡県ボランティア協会)
東海地震が起きると言われて35年。静岡県では防災意識の啓発を続けている。阪神大震災以降、ボランティアコーディネーターの養成や、市町村による災害ボランティア団体の自主的な組織化、ボラセンの立ち上げ訓練などに取り組み続けている人たちが静岡県内には大勢いらっしゃる。また、東海地震に備えて静岡県内と県外の人たちの間で顔が見える関係を作るための図上訓練を7年ほど実施している。昨年は3月5~6日に訓練をしていたので、3.11の時も動きが早かった。
我々も含めて財政的に脆弱な支援団体がどう動くか。まず行ったのはボランティアのための支援金作りだった。震災翌日から静岡市内で募金活動を行い、初日に約50万円、次の日に100数十万円が集まった。静岡の人達の善意の後押しのおかげで被災地に入る準備ができた。寒い時期だったので毛布を贈ることにしたが、被災地に入るルートをどこにしたらよいのかわからなかった。当時、静岡県の行政が全国知事会の申し合わせで岩手県を支援すると決定していたので、我々も岩手に入ることを考えた。3/19~3/20に花巻に毛布を届けたのち、静岡県職員が支援に入っている遠野市役所に行き、県の行政関係者の先遣隊と一緒に活動した。
3/20に被災地沿岸部を車で視察したが、とてもあの周辺にボランティアの拠点を作ることは考えられなかった。3/20に(遠野市に)市有地を貸して欲しいと申し出て、翌日に浄化センターの使用許可が下りた。遠野にまず宿泊拠点をつくるためにはどうしたらよいか、被災地NGO協働センターやレスキューストックヤード、日本財団に相談した。日本財団のロードプロジェクトから建設費用(約1800万円)を出して頂くことになり、ボランティアの宿泊拠点ができた。そして遠野まごころネットの傘下で活動に参加するという取り組みができたことは今回とても大きな意味を持つ。阪神や中越の時は教会やお寺などの片隅を借りて支援活動に関わってきたが、このような経験は初めてだった。遠隔地にありながら、静岡県内での善意を組織化するにはどうしたらよいか、そのためにはボランティアを送り続けなければならない。実際に現地を見て汗を流し、地域に戻った人がその経験を話し、新しい人がまた現地に行くことを繰り返すなかで被災地支援は続く。できなかったことはいっぱいある。静岡県で十分な情報発信ができなかったし、善意を(完全に)組織化するところまではまだ到達できていない。継続支援が必要ななかで、その力を結集させるにはまだ足りないと反省している。
―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
現地に入って正確な情報を把握し、静岡県民の気持ちやお金、マンパワーなどを形にしていく上で、遠野という後方支援基地を認識してシステムを作りあげたことが非常に興味深いと思う。一方で、静岡県民の気持ちの強さはどうか?
―――鳥羽茂氏(静岡県ボランティア協会)
現地に親戚がいるなど、強い動機を持つ人たちがまず動きだした。私自身、岩手に行ったのは初めてだった。初めてという方も被災地支援にかかわるなかで、岩手が好きになり、何とかしなければという気持ちをさらに強く持つようなことが増えた。ボランティアバスを送り出すなかで、現地に行った人たち(約1200人)のつながり作りを大事にしたいと思っている。そのような想いを形にする、つなげることが中間支援組織の役割でもあるだろう。
―――坂田 宏氏(遠野まごころネット)
7年ぐらい前から(図上訓練など)準備をしていたとの話だが、具体的にどのような準備をしていて、それがどのように生きたのか?
―――鳥羽茂氏(静岡県ボランティア協会)
市町村におけるボラセンの立ち上げや運営のほか、周辺をどう支援しあうか、県レベルではどう対応すればよいか、県外にはどう情報発信していくか、支援をどう受け入れるか。上手に支援を受け入れるために「受援力」という言葉がよく使われるが、そういうことを7年ほど検証してきた。県の行政や内閣府の災害ボランティアの検討会などとも関わりながら取り組んできた。
―――坂田 宏氏(遠野まごころネット)
必ずしも準備してきたことが今回生きたかといえば、そうではない団体も比較的多いと聞いている。特に県や他のプレーヤーも巻き込んで準備をしていた点が一番の肝になったと考えればよいのか?
―――松永 秀樹氏(ジャパン・プラットフォーム)
イメージトレーニングは重要だ。釜石で(津波による)子供たちの被害が少なかったのは、何度も訓練してとにかく逃げろということを子供に徹底させていたからだ。イメトレは風化の問題とも連携するだろう。風化するのは当事者ではないからだと思う。例えばお子さんや親御さんを亡くしたら一年経っても時間は止まったままで、このような検証をしてもいいのかという議論もある。当事者として自分のためにもやっていることだと思えば、いろいろな形で結びつくのではないか。
~つづく~
(まとめ・文:高崎美智子)
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